罪の認識と同調圧力

なんとなく、あの問題について書き残しておきたい。

 

行われたことは間違いなく犯罪であるので、行われたことが確かであるとするなら、まず、ここに何かをさしはさむ余地はない。もちろん、それが確かに行われたことであるのかどうか疑義をはさむ人もいるだろうし、これから出てくる被害者が全員確かに被害者かということはなんらかの確認が必要なのかもしれないけれど、現時点において、ただ報道を見聞きしている僕らからすれば、「確からしい」ことは間違いなさそうで、だとするとそれは「いつの時点においても」「犯罪」であり、それ以上でも、それ以下でもない。

 

しかし、新しく社長などという責務を背負っていた人に、「それを知っていたのか」「なぜ確かめなかったのか」「行動を起こさなかったのか」などと責任を追及する様子を見ていくとなかなか難しいものを感じはじめる。

 

もちろん、その当時において経営に責任のある人は別だ。犯罪の可能性があることを見聞きしているとするならば、そこに責任は生じるわけで、そこを追及することは当然のことだ。

 

しかし、そうでない場合はどうなのだろうか?

ふと考えてしまう。

もちろん、ある種の「悪」を確実に把握したとするなら、善意の第三者であってもある種の責任は生じるだろう。たまたま犯罪を見かけてしまった時、それが「確か」であると自覚したなら、「見ないふり」には責任を生じる。

しかし、「噂」であるとするなら?

「確か」だと確証が持てないとするなら?

それはどうなのだろうか。

もちろん、道義的にそこを確認して追及しなかった責任はあるのかもしれない。でも、この問題の場合、おそらくきっとそのことを「みんな」知っていたのだと思う。

それこそ、芸能の世界と何の関わりを持たない一般人の大学生だった私ぐらいでさえ、その「噂」は確からしい噂として把握していたわけだから、メディアの世界の人とか、芸能の世界の人とかそういう人たちが知らないはずはない。

でも、確かだという確証がない限り、あらぬ噂や根拠のないゴシップである可能性があるとすれば、動かないのは当たり前。

根拠のない噂で大騒ぎをすれば、それこそフェイクニュースを広める輩と大差はないわけで、「確からしい」としても「確かではないのだから」と言い聞かせて、僕らは貝になっていくわけだ。

まして相手が権力であるとするなら。

そういう構造の中でみんなが貝になって、見ないことにして、黙ってきたわけだ。

で、こうして発覚すると、メディアの人が新しい社長などの責任を持つ人に追及をはじめていく。

しかし、過去においてあなたはどうだったのか?そう矛先を向けられて、はっきりと「私は戦ってきました。訴えてきました。」と胸をはれる人はほとんどいないに違いない。

そういう状況において、「知っていたのか」「行動しなかったのか」と詰め寄ることははたして正しいのか?

結局は、みんなが黙っている時は沈黙し、みんなが声をあげたからその流れに乗って自分を正当化しているだけにすぎないのだ。

僕らは過去を忘れる。

得たいのしれない雰囲気は、まさにみんなで作りあげたもので、もちろん自分だって他者からすれば「みんな」の一員に過ぎないのだけれど、僕らは「みんな」の圧力によって、自分が正しくない選択を強いられた、と解釈する。

だからこそ、本来、その当時責任をとれた人、行動を起こせた人、つまり「みんな」の中でも責任の重い人を必要としているわけで、そういう責任を誰かに押しつけながら、「あなたが行動しないから、みんながこうなったんですよね?」とでも言いたげに質問をしていく。

でも、その追及されている人だって過去においては、みんなの一員に過ぎず、責任を持っていたわけではない。今、責任を持っているだけで、当時はなかったし、あるとすれば、みんな、つまり、あなたと同じ程度の責任のはずなのだ。

メディアは、そしてそれを受け取る僕らもその責任には触れない。触れたとしても、「もっとなんとかできる誰かがいたんじゃないのか」という形でしか触れない。

でも、メディアは本来、その「みんな」を形成するそのものであって、むしろ責任しかないはずなのに。

 

とはいえ、この問題、このテーマの難しいところは、次の点にもある。

なぜ、当時追及できなかったかといえば、見過ごしてきた責任による罪悪感もあるだろうからだ。

僕らはなんとなく知っていたのに、「確からしいけど、確かであるという確証はないから黙る」という選択をした。その責任、その罪悪感は、追及の矛先を鈍らせる。

黙ってしまった自分。だから責められない。一度黙ってしまうと、みんな同罪だよねとばかりに、黙らせる同調圧力が働く。

そして、今までこうなったわけだ。

二度と起こさないためには、追及は欠かせない。

しかし、良識があって、罪悪感をもつメディアの人は、きっと追及の矛先を他人に向けきれないのだろうと思う。

それでもなぜ、こうなったのかを自らも含めて明らかにしていかないといけないのだと思う。

結局は、ある種の同調圧力の問題で、その仕組みをどう暴くかという話でもある。

そして、過去の問題を現在の自分からだけ考えず、過去の自分のありようを正確に読み解こうとする作業でもある。

でも、そんな面倒なことをするメリットは多くの人にはないから、とりあえず自分よりももっと責任のある人を見つけて、そのせいにしていく。

同調圧力というのは、結局は責任の問題で、自分の責任から目を背けようとする仕組みなのだろうなと思う。

教育の崩壊

教育の崩壊なんてタイトルをつけたがたいした話ではない。

教育実習生が少ないなあ、なんて思っていたら、どうも自分の周りだけの話ではないらしい。いたるところで、実習生自体が減っていて、昨日、公立の先生と話したら、そこそこの大学の学生が特に減っていると。

というわけで、学校の先生がなり手が少なくなって、先生が不足する。

「そうなると教育が崩壊するってことですね」と頷いてくれるかもしれないけれど、そう簡単に崩壊はしない。今のところ、突然先生がやめたりすると代わりが見つからない感じの「困ったなあ」はあるけれど、採用試験の倍率はまだ一倍を切るようなことはなく、つまりもうしばらくの間、なり手はいるということだ。

教員がブラックだ、というのはある意味で間違いない。

でも、これを自由市場の社会と捉えてみた場合、それでもいわゆる派遣とかバイトとかとは違うし、ある一定の給与が保証されるわけで、社会の行き詰まり感と比べれば、どんなにブラックでも、それでも職を求める人は出るだろうし、そう簡単に崩壊しない。

もちろん、この発言は、教員のブラックな環境を肯定しているものではない。市場としてとらえるなら、大変であっても一定の給与があれば人は集まる。人気は出ないかもしれないけれど、人が足らなくなるかと言われれば、きっとみんな妥協して教職につくこともある。ただ、それだけの話。人が集まるから改善しなくてよいなんて、微塵も思っていない。

じゃあ、なんで崩壊って話になるのかというと、結局、教職というものが「市場」に出されて他職種と競争して天秤にかけられているということだから。

もちろん、私立の学校もあるから、学校が競争とか市場とかと無縁であることはありえないのだけれど、教育全般については「公」のものであって、みなに行き届かないといけない。

でも、そこに市場が入り込んでサービスとして成立するとそうはいかなくなる。

生徒や保護者は、教育をサービスとしてとらえて、何かしらの形をほしがる。本来サービスとは、何かしらの費用の対価として提供されるものだけれど、この場合は曖昧。でも、「払ってないから」ではなく、「税金はらってるんだから」という曖昧な意識の中で、無限の対価を求められる。

サービスを提供する側からすれば、要はもらっている給料に対して業務はどうか、という問題になる。現実問題として、公立の先生からすると、毎日12時間ぐらいは軽く働かされつつ、しかも新人とかあるいは再雇用とかだとせいぜい月給で手取り20万を越えたぐらいだろうから、時給換算ではたぶん1000円ぐらい。

となると、そこらのアルバイトと変わらないから、他に割のいい仕事があればいくらでも辞められる。

サービスを求める側は、無限にサービスを求めるのに、提供する側にそれに対するペイが支払われていない、待遇が伴っていない、ということになると、自由市場において、労働者がいなくなるのは当たり前の話だ。

では、今まで何でやってこれたかというと、それはサービスではなかったから。つまり、「公」が提供するものであり、それはいただけるありがたいものであり、それを指導してくれる先生には感謝をするものだったから。

先生そのものが尊敬や感謝の対象であり、おそらく宗教とか医療とかと同じ領域にあったはずで、でも、そういうものが崩壊して、ありとあらゆるものが、サービスという形に変化している。医療もきっと大変だろう。

だから、学校は崩壊しないけれど、教育は崩壊する。

尊敬や感謝が必要なわけではないけれど、それがなくて当然のワードになれば、逆にボランティア的な、自己犠牲的な、「尽くす」行為がなくなる。時間が終われば、要求されたことをすれば、それでよいわけだ。

だから、実は大きな問題になっているのは、教員が不足していることでしかない。こういうサービスと化した教育において、教員の質とか内容はどうでもいいのだ。

資格のある人がサービスを提供できるか否か。

だから、議論からすると、資格のある人を増やせばいい。定年遅くしたり、免許を持っていない人が教えられるようにしたり。

そして、誰にでも同じ質の教育が提供できるように、サービスはマニュアル化されることが望まれる。でも、そうなった瞬間にマニュアルに書いてあること以外を提供する必要はない。コンビニやファーストフード店に、余計な雑談的接客は必要ないのだから。

しかも厄介なことに、客はサービスで学校を選んだりしないので、公教育においては、マニュアルの内容とか、それ以外の付加価値なんていうものは議論にならない。ひたすら、問題とされるのは、誰にでも提供できるサービスのマニュアルであり、それを遂行する教員が、いかに楽に仕事をできるかという、人材確保の競争にしかならない。

おそらくそうなった先には、放課後の塾であるとか、私立としての学校選びとか、結局はお金とサービスがリンクする本当の、自由競争の場に教育が移行してゆく姿があるのだと思う。

残念ながら、すでに学校内においても、職人のように築き上げたノウハウを共有するシステムも失われつつある。教員間も、業務でサービスだから、そんな伝承は、仕事に入っていないし、それを伝承とするのは時間外であるなら、伝承される側がそもそも断るような状況になるし、ましてそれが「うるさいベテラン教員のおしつけ」と取られるリスクがあるなら、伝承する側も時間外にそんなリスクをおかす必要がないのだ。

でも、教育実習生がいないというのは、それでも驚き。しかも圧倒的な速度でそれが進んでいる。部活動の地域移行なんて、何年かかるやら…と思っていたけれど、案外数年のうちに限界を迎えて、学校が放り投げるような気もする。

代償の話 その2

この間、テレビを見ていたら、スーパーで売っているサラダにカエルがはいっていたとかで騒いでいた。

まあ、確かにサラダにカエルが入っていたら気持ち悪いし、びっくりしてしまうけれど、だからといって、テレビで大騒ぎするほどのことかどうかはよく考えたほうがいい。

もちろん、工場が不衛生で、その不衛生な環境からさまざまな生物が食品に混入する確率があるとしたら大問題で、たとえば、工場の中に大量のカエルやら何やらが生息していて、それがちょっとしたことで混入する環境なら大問題であることは間違いないけれど、誰がどう聞いたって、「それって野菜にくっついてたんですよね?」みたいなことに違いない。

もちろん、それにしたって、気持ち悪いに違いないし、ちゃんと排除しなくちゃいけないんだけど、こういうのを果たして「システムの問題」とか「洗浄過程の見直し」みたいなことで語っていいのかどうか。

当たり前だけれど、そういうミスのないシステムを作ればコストがかかる。人手を増やすにしても、機械を導入するにしても。

つまり、ある程度ミスが起こるとしてもコストを抑えていくべきなのか、完璧なチェックをするためにコストが上昇し、高い食品を購入することになるのかは、僕たち騒ぐ消費者による。

もちろん、それに高いコストがかかるとしても命が関わってくる問題になるとまた難しくて、ミスを起こしてしまえば命が失われる…となると、もうひとつ別の判断も必要になる。

強風で脱線事故を起こしたJRの時がそう。風速40Mとかって予見ができないような突風が吹いて事故が起こる。そういう風を感知して自動で止めるシステムがあるらしいけれど、めったに吹かないそういう風のために、いたるところにつけるのかっていうのは議論になる。

まあ、当然つけられないわけで、だからそれ以降、一定の風が吹くと、鉄道は運行をやめることが多くなった。そういうリスクのある場所ではシステムがない以上、走らせられないわけだ。

それに比べると、サラダのカエルはだいぶかわいらしい。

なんとでもできそうな気がするが、それでも「代償」について考えてしまう。

まあ、そんなことを言ったところで、時間が経てば大部分の人は忘れ去ってくれるだろうからいいのかもしれないけれど、きっと炎上していたころの当事者は、大変だったろうなあと思う。

自分の子どものころの思い出に、部活帰りのスーパーで、値引きされたドーナツやらシュークリームやらを買って、食べたという記憶がある。

今の子どもたちは、平気でスタバ行って、なんちゃらフラペチーノを飲んだりしてるけど、僕らにとって缶ジュースでさえ飲めなかった。50円のアイスか、30円のお菓子か。でも腹の減った男子からすれば、同じような値段で置いてあるシュークリームやらドーナツがあれば、とびついて買ってしまう。

時代なんだと思うけれど、それは当然賞味期限が「切れて」いて、そのリスクを承知でぼくらは買った。

シュークリームを食べると舌にとげがささるような痛みがして、ふと見ると安いカスタードクリームが、高級な生クリームとカスタードクリームの二層のやつみたいに、白いカビが生えていた。

それでもぼくらは「負けた…」とかいいながら、店にクレームを入れることもなく、値段相応のリスクを改めて認識する。半額どころではなく、本来100円ぐらいするものを20円ぐらいで手に入れようとした自分のあさましさを反省したものだ。

そして、賞味期限をすぎたクリームは危険だということを学び、ドーナツに手を出し、砂糖がレモンに似たすっぱさになることを知ってまた、あらたな危険を学んでいく。

要するにおおらかだったのだ。

それがいいわけではない。だってくさってるのを売るのはやっぱり問題だから。

でも、今だったら、どんなに安い値段で手に入れても際限なくクレームを入れて、きっと、そのコストのしわ寄せがどこかにいって、めぐりめぐってこの賃金の上がらない世の中を作っていると思うと、いたたまれなくなる。

僕らはある程度のリスクを許容して、だからといって、カエルが入ったサラダ食べろと言ってるんじゃなく、持ってって代わりのものもらって、頭下げられて、もしかして無料にしてもらったりとかあるいはおわびに何かちょこっとつけてもらったら、ラッキーと思えばいい、というそういう話だ。

「代償」はふさわしいものでなければ。

にもかかわらず、代償を求めていると、サラダの値段は高くなる。

でも、高くなると人々は買わない。みんなが一斉に高くすればいいけれど、消費社会はそうはいかないので、「カエルが入るなんてめったにないから、リスク対策しなくていいや。その分安くしとこう。」という業者が抜け駆けして、結局それが売れる。

もちろん、消費者が厳しくて代償を求めるとそういう業者は、問題を起こした後、淘汰されるわけだけれど、それを見ていた他の業者は、リスク管理をしながら安い値段で売りたくなる。新しい機械は高いし、人を増やすとコストに影響するから、今の人員で、今の機械のまま、作業を増やす。給料あげるとコストに影響するから、それもしない。

かくして、給料は上がらないけれど仕事が増え、で、だからこそ、安くて安全なサラダを食べたくなるわけだけれど、結局、本質的にはどっちも自分たち自身の問題であることを認識しないとまずいよねって話。

「うな丼」の話

大臣が、首相が襲われるという大事件を前にして、うな丼を食べたとかうな丼がおいしかったとか発言して、みんなから責められている。

まあ、なんとなく不謹慎だよな…という感じはするものの、一体何がどう問題で、どんな風な責任があるのかっていうことを整理しておこうと思う。

ブログに書くわけだけれど、自分の頭の整理。感じ方は人それぞれで、自分が整理したものが、人にも適用されるかわからないけれど。

事の顛末は、首相が応援演説をして爆発物を投げつけられたという一報を、大臣が回っていた先の、名物の鰻屋で、うな丼が提供された時に聞いた、というもの。まあ、ここでやめればよかったんだろうけれど、そのあと「うなぎはしっかり食べました」なんて続けてしまったから、いろいろ批判を浴びている。この発言は自民党議員のパーティでされたものらしい。

この人が公安委員長だから、その役職もあって責められている。

で、何がどう問題なのかということ。

たとえば、うな丼を食べたことが問題なのか。

あるいは食べたものが問題で、うな丼でなければよかったのか。

いや、そうではなくて、発言が問題なのか。

発言が問題だとすれば、何がいけないのか。

そんな感じなんだろうと思う。

まず、食事自体が問題であるとするならば、それが緊急でかつ食事をしなければ、命が救えたというような場合の話をしているんだろうと思う。

記憶に新しいところでいえば、韓国のハロウィンのあの事故の時に、所管する警察署長が報告を受けながら食事をしていた…ということで捕まっている。つまり、食事している場合でない、ということだろう。

常識的に考えたって、たとえば、目の前で交通事故が起こって人が助けを呼んでいる時に、熱々の食事が来たからといって、食べ終わってから救助に向かうわけにはいかない。

となると、このあたりは、緊急性と役職などによるのだろう。だから、もし、食べている場合じゃないというのは、一刻も早く任務に戻る場合の話で、「仕事を続けてください」と言われたなら、食事自体がいけないなんてことは起こりえない。それこそ、新幹線や飛行機で移動中に食べておかないと仕事にならない。

そんなことを考えてみると、要は、この人がその瞬間に対応するべきことがあったかどうかが問題であって、もしないとするなら、このこと自体は問題ではないということだろう。

では、食べたものが「うなぎ」だから問題だというのはどうだろうか。ここは非常に難しいところで、カレーならセーフでうなぎはアウトとか言い出すと、逆にカレー差別発言になってしまうような気がするし、たとえば「おにぎりだろう、緊急時は」みたいな人がいたとして、そこに高級うなぎが乗っていてもその人は許すのだろうか。

もちろん、緊急時にわざわざ、高級割烹に移動する…なんていうのはセンスがないとして、たまたま目の前に、高級な料理があって、自分がその瞬間にすぐ対応する仕事でないとするなら、それを食べずに店を出る必要があるのか…なんていうのは貧乏人の自分は考え込んでしまう。

自分が政治家だとして、「これは食べずに出た方が、アピールできて得だな」なんて考える可能性はあるにせよ、政治家でない自分が「高級料理を頼み、それが目の前に並べられた時に、知り合いの訃報を聞く」なんていう時に、食べないでいるだろうかと考えればきっと食べるような気がするという話だ。

考えてみればわかるけれど、緊急時だからといって、質素なものを食えというのはおかしい。もちろん、大規模災害のように、食料自体が行き渡らない時に、一人で食ってるなんていうのは別の問題になるが、そうでもない時に何を食おうが、問題にすべきではない。

つまり、ここもたぶん、問題なくて、政治家を養成する先生みたいな人がいて、「これはセンスがないですよ。こういう時は、食べずに帰って、それをさりげなくアピールした方が見栄えがいいですよ」みたいな話として責めているならわかるけれど、実は問題がない。

ということはこの問題は全て、発言したことにある。

わざわざ言わなきゃいいのに、ということだ。

たぶん、受けたかったんだろう。身内のパーティだし。

でも、これだって、この何倍も、自分がその緊急時に何をしたか、どんなことを考えたか、大問題ってとらえているかを述べていて、ちょっと和ますために発言したくらいなら、目くじらを立てるようなことではない。

けれど、たぶんそういう文脈とか、誤解される危険性を考えていないから、こういう冗談として発言されてしまうのだと思う。

そういう意味において、事の重大さがわかっていない、自分の立場がわかっていない、という指摘はきっと正しいのだと思う。

でも、それはうな丼を食べたからではない。だって緊急じゃなかったんだろうから。首相が襲われたことが「緊急」でないなんて言ってない。彼にとって、急ぎやることがなく、行動することがなく、やるべきことがなかった。彼にとって、やるべき仕事は「報告を受け把握すること」だったのだ。いや、もっというなら、たぶん、彼にとっての仕事はだからこそ、出張先で訪れた場所で、地元の名物を食べることだったのだ。だからこそ、仕事を全うしたといえる。

だから、うな丼は食べてよいのだ。やるべきことをやったのだから。

悲しいのは、やるべきことがそれだけであったということ。

きっと世の中はこうやってできている。一番上に立つ人はお飾りであり、やることはない。きっともっと実務的な人がしっかり仕事をしていてくれている。指示を出す人は他にいて、その人が仕事をしている。この人の仕事は「その指示を出しているという立場にいる、指示を出さずに報告を受ける人」ということなのだと思う。

だから、更迭なんてする必要はない。任務は全うされたのだから。そしてこの役職は誰がやったところで影響は出ないことがわかったのだから。

そして、発言の問題は、それを自分で発表してしまったということ。

なんで発表しちゃったかといえば、悲しいかな、おそらく自分がそういう責任のある仕事であるということも自覚していたこと。自覚がなかったのではない。自覚していたのだ。

きっと、地元で名物を食べることが優先すべき仕事であり、全うすべき仕事であり、でも、自分には緊急時にやるべき仕事、つまり、「大事な報告を受ける職責」があったということを、ついつい報告したくなってしまった。

まあ、そんなところが実際の心理だと思う。

ぼくらからすれば、なんでわざわざそんなこと…と思うけれど、大事な仕事がありながら、緊急の大きな事件の報告を受ける自分が誇らしいとすれば、こんな発言になるだろうと思う。

お飾りなんだってみんなわかってるかもしれないけれど、そういうことを自分から言ってしまったら、本当は困る人がたくさんいる。本来リーダーであることに変わらないから、いくら実質の指示を出していなくても、責任はとらなくちゃいけないし、となると把握はしたいはず。

たぶん、だから「リーダーです」ぐらいの雰囲気は醸し出しておきたいわけで、ここを責めておかないと、自分までそう思われてしまう。

だから、困ってしまう。

こういうリーダーはどんと構えて責任をとればいいわけで、あんまり事細かに指示出すような介入型は現場を混乱させる。社長ぐらいだったら、自分がどんどん行動してもいいけれど、一国となると、本来なかなかそうもいかない。

でも、ちゃんとそれを弁えていれば、あんな発言をわざわざして笑いをとる必要はない。いや、笑いをとるにしても、もっと何倍も事の重大さ、深刻さと、自分の仕事と責任を語った上での話だ。それもしないから、残念なことに笑いもおきなかった。

笑いっていうのは、みんなの常識を踏まえて意図的にずらすことだっていう基本。

常識がわからなければ笑いは起きない。

きっといい人なんだよな、とは思う。

だって、こういうこと全部わかって、その上で「うな丼を食べないことで、何かが変わるわけはないけれど、ここは食べないで、足早に去っておいて、このエピソードを後で使おう。うな丼は申し訳ないけれど、数ヶ月後にまた訪れれば、またこのエピソードが掘り起こされ、ここへのアピールもできるだろう」なんて瞬時に考えられる方が詐欺師っぽい。

でも、仕事ができるってこういうことなのかもしれないと思う。

炎上と代償

もうここしばらくの話だけれど、ネット上には「炎上」というものがある。

なにかしら、よくないことをしてしまったことによって、「炎上」が起こる。それは行為であったり、発言であったり、犯罪であったり、モラルとして許されなかったり、さまざまなのだけれど、なんらかのきっかけでインフルエンサーやメディアに取り上げられ、拡散すると、一気に関係のない人や、直接被害を受けていない人や、それどころか実際に見たわけでもなく聞いたわけでもなく、また聞きのような形で、メディアにとりあげられた文面や内容で、怒りをぶつけたりということが起こってくる。

もちろん、まったくの捏造でないかぎり、そもそも「炎上」した人に問題があることは間違いないわけだから、その周りで文句を言っている人に何かいったとしても、「加害者をかばうな」とばかりに、「そもそも…」と「炎上」した人の問題点を指摘するという構造が続く。

ネット社会というのは、まさにこういうことで、「正義」が自分にあれば叩くことができる。いや、正確な言い方ではないな。「悪」がそこにある以上、自分は正義でいられる。正義の立場から発言し、正しい人間になることができる。むしろ、発言をして、叩くからこそ、正義になるのであって、もし叩かないとするなら、自分の正義が揺らぐとさえ、言えるのかもしれない。

しかしながら、失敗やミスをしない人はいないし、誰だっておおかれ少なかれ怒られてきたはずだ。そういうことを繰り返しながら、大怪我をしないような「加減」というようなものを学んでいく。いや、もしかしたら、限度を越えたから怒られたわけで、加減なんて学んでいないのかもしれない。しかし、たとえばそれが学校なんていう、ちょっと閉じられた特殊な世界で起こることによって、本当は大失敗で取り返しがつかないけれど、まあ、なんとかちょっとした失敗ということにされて、なんとか今を生きているのかもしれない。

というわけで、ネット社会の現代において、特に子どものちょっとした失敗は、あっという間に、社会全体で共有され、叩かれることになった。ネットの書き込みや動画であれば、「ネットの使い方を…」「リテラシー教育を…」というような形でしのげるのかもしれないけれど、実際にはネットの世界で起こっていない出来事であっても、どこかに記録され、それが掘り起こされて、ネットの世界で炎上するわけだから、もはや、炎上するかしないかは、それが記録されたかどうか、あるいはどこかでネットにあがったかどうか、そして、それが叩いてよい対象としてみんなに共有されたかどうかに尽きる。

運のようなものだ。

もちろん、毎日炎上が起こるわけではないから、依然として子どもたちの多くの失敗は、今までと同じように誰にも知られることなく、流れていくものがほとんどだ。でも、あるきっかけで、炎上してしまえば、それは取り返しのつかない事態となり、「そこまで書かなくても…」なんて書けば「いや、結局は自分がもともとしたことで…」とぐるぐるまわりはじめる。

要は「代償」の問題。

それはいけないことであったとしても、日本全国で共有され、みなから批判されるようなことなのかどうか。もちろん、話題としては皆が批判するに違いない。間違ったことなのだから。しかし、だからといって、それが日本全国から一斉に批判されることなのか、といえば、私は必ずしもそうではないと思うわけだ。どこでも普通に起こることであるなら。もちろん、ここで書く普通とかどこでもとかは、「それは普通にどこでも起こるからたいしたことではない」などと書いたつもりはない。だから、たいしたことのないことであったとしても、許されない罪であることもあるだろう。だから、みんながそれを「許せない」と思うのも間違いではない。そうではなくて、「みんながいつまでも許せない」なんて声をあげて、本人に届く形にする必要があるのか、ということだ。

現代において、朝のニュースのトップで、万引きや危険な自転車の運転がとりあげられる時代。それがたいしたことでない、と言っているのではない。それが、全国のニュースでトップで取り上げられ、まだそれがモザイクがかかっているからいいけれど、炎上という形でモザイクがはずれ、さらされるようなことなのか、ということだ。

常にこういう危険が、普通の生活の中にあるのだ。

今や、教員として、こどもたちの行動が、炎上につながらないことを祈るしかない。一端、炎上してしまえば、なんとかしてあげようという行為さえ、「そんな子どもを守るのか、隠すのか」となりかねないのだから。

春がいつかというのは難しい。

暦の上では2月になれば十分春だけれど、なかなかそうも言えない。季節として、花が咲いたり、暖かくなったりという節目も当然あるけれど、日本においてはやはり3月が終わって4月になるという、その年度替わりが「春」のような気がする。

冬が終わって、春がきて、また1年がめぐる。

当たり前のように繰り返される年の移り変わりだけれど、そこには決定的な断絶があって、入れ替わりがある。

死の後に生がやってくる、その不気味さ。

終わらなければ、始まらないし、終わらないものはないのだけれど、突然、何かがぶつりときれて、新しいものが始まる。

学年が変わって、新しいクラスになったり。

誰かが辞めて、新しい人が入ってきたり。

まあ、ともかくもさまざまな変化が春に起こる。

もちろん、ちょっと新鮮であったり、ちょっと緊張したり、ちょっと楽しみであったり、ちょっと不安であったり、様々な感情がそれぞれの人の中に渦巻いているのだろうと思うけれど、残念なことにあっという間にそれが日常と化していく。

それが日常となるのにどれぐらいの時間がかかるのかわからないけれど、ただひたすらに僕らはそれを日常とすべく生きている。

どこであれ、僕らは日常を形作り、いつかはその日常から離れる。らせん階段のように、ぐるぐると回りながら同じ事を繰り返しているように感じるけれど、この冬から春の間には必ず断絶があって、そこをぼくらはひょいと飛び越える。

本当はものすごい断絶があるのに、多くの場合、歩いている歩幅と変わらないぐらいで、何気なく、ひょいと飛び越える。

それなりに思いを込めて、その断絶を飛び越えても、あっという間にそれは日常の歩幅と変わらなくなる。

いい意味でも、悪い意味でも。

失われるものが大切なものであるように感じても、では、それが大切なものとして向き合ってきたかというと話は別だ。

特別なもののように新しい場所が用意されていても、そこに特別なものとして敬意を持って向き合うかといえばそれもまた話は別だ。

それがいい意味でも悪い意味でも、日常になるということだと思う。

日常にならなければ、それはそれで大変だ。でも、日常になればある種の敬意は失われていく。当たり前だ。毎日、顔を合わせるありとあらゆるものに緊張や敬意を持って接するわけにはいかない。疲れてしまう。

とはいえ、そういう当たり前の日常が続くことの尊さを本来は感じながら生きていきたいと思うわけだけれど、実際にそういうわけにはいかない。

だから、こういう断絶がある春のときぐらい、失われたものに対する敬意を心のどこかに持ちたいと思ったりする。

monogatary.com

自分らしさと孤独

ネットにわざわざ馬鹿なことをやって、そして炎上する、という出来事はずっと続いている。

承認欲求といえばそれまでだけど、そもそも承認欲求がないなんてことはありえないし、それは満たされていないから爆発するか、あるいは承認されていることに気付かないから爆発するだけで、少なくとも爆発していないからといって自分は承認欲求なんてないなんて思うのは間違いだ。炎上している人が承認欲求モンスターなのではなく、あなたが恵まれているのにすぎないだけかもしれないから。

ネットにわざわざ馬鹿なことをあげたいのは、バズりたいからというか、見てほしいからであることは間違いない。つまり、逆に言えば、見られていないという感覚があるから、もっとやらなくちゃいけなくなる。

いいねがなかったり、コメントがなかったり、アクセスがなかったり。

だから、あの手、この手で見られたいと思うわけだ。もちろん、ブログかなんか書いてアクセス解析かなんかしてしまえば、本当に読まれていないことに気付くかもしれないけれど、いわゆるSNS系のものの場合、いいねがなかったり、コメントがないからといって読まれていないとは限らない。でも、反応がなければ見られていないような気がするし、そもそもインフルエンサー的な人と比べれば圧倒的に読まれていないわけで、だから、もっとおもしろいことをやらなくちゃいけないし、仮にちょっと過激なことをやったとしても、そもそも近い人しか見ていないわけだから大丈夫なわけだ。

ここがそもそもの矛盾ではある。

もっと見られたいから、もっと反応がほしいから、ついついやり過ぎちゃうわけだけど、仲間うちしか見てないわけだから大丈夫。実際、今までだって誰も見なかったし。みたいな矛盾した感覚。

というわけで、今や誰でもどこでも炎上できる。

そもそもネットの世界や、SNSの世界に居場所を求めるというのは、リアルの世界からの脱却という側面がある。リアルの世界に友達がいないとか、おもしろみがないとかそんなことではなく、ただ、自分の別の可能性というか、現状から脱却して、どこかにジャンプしていきたいようなイメージ。そこには、そこはかとなく、リアルの世界で回りに合わせることに疲れ、決められた役割を演じることに疲れて、ジャンプしてどこかに行きたいような衝動があるんじゃないかと思う。

でも、結局、そこには同じような社会があって、他人からの反応がなくちゃやっていけない。いいねをもらって、コメントをもらいたい。それがなければ、なんだか無視されているような気がする。

ネットの世界は気楽なような気がしてみんながやってくる。決められた役割とか、ポジションとか、決めつけとか、そういう自分をしばりつけるものが、不特定多数の他者という環境の中では比較的流動的になって、もっと自由に演じられるし、変更できるから。

でも、実際はネットの社会では、なんらかのデータ、写真であったり、コメントであったり、いいねであったり、動画であったり、そういう何かがなければいないのと同じで、そこに反応がなければ無視されたも同然だ。

リアルの世界では、何にもしなくても、何も発言しなくても、それなりに存在感を示してそこにいることができるし、何も発言しなくても、退屈や共感や興味や嫌悪を相手に伝えることもできる。

でも、ネットの世界では、なんらかのデータとして与え、与えられないと存在しないのと一緒。

かくして、ひたすらネットにデータをあげ、なんらかの反応を引き出したいという欲求がその行動を作り上げる。

誰にも見られていないから多少踏み越えても仲間うちだから大丈夫で、ちょっと踏み越えない限り、その仲間うちが広がることはない。

いつどこで誰が炎上するかは、運というか、タイミングというか、そんなことではないかと思う。

それでも、そうやって同じようなことが続くのは要は人間が孤独であるからだということだと思う。

人間はそもそも孤独だ、ということではない。

たぶん、人間はそもそも孤独にはなれなくて、常に関係の中にいる。でも、僕らはそこに嫌気がさして、そこから抜け出して、みんなとは違う何かを得ようと思う。

でも、そのためにはやっぱり誰かに認めてもらわなくちゃいけなくて、ネットの世界の中でひたすら反応を求める。

いうなれば、人間は結局孤独にはなれないし、関係の中から逃れられないのに、そういう関係を否定して、ひたすら一人になろうとする。みんなから決めつけられた自分じゃなくて、自分が決めた自分になりたい。でも、そのためにはみんなにそう認めてもらわないといけない。

原理的にかなり無理なことをしているから、結局、認めてもらえないという孤独のうちにいる人が大半になる。

それにしても、こういう炎上が子どもに起こっているのを見ると本当に辛くなる。

だって、誰しもそういう葛藤の中でやりすぎたりすることは経験して大人になるわけで、それなのにその舞台がネットとなる現代では、とりかえしのつかない傷になる。

僕らのころは先生や親にこっぴどく叱られて、下手すれば何でどう怒られたかなんて覚えてさえいないのに、今や、日本中で共有されて傷として残る。

もちろん、企業に与えた損害とかもあるわけだから、何もないというわけにはいかないかもしれない。それでも、たとえば補導されたりすることと、テレビやネットに自分の話題が出続けることはレベルが違う。

そして、それを教育できなかった学校や親の責任も問われるんだろう。この果てしない、傷のえぐりかた。

そうなるかならないかは、きっと運でしかないのだろうと思う。

人間関係は面倒だけれど、そうはいってもその中でなんとかやっていけるように関係を作っていくことを大人としてやるしかないんだろうなと思ったり。でも、その関係の有り様、みんながのぞむ関係が変わっている以上、きっと新たな関係をどこかで作っていくしかないんだろうなとも思う。