教育の崩壊

教育の崩壊なんてタイトルをつけたがたいした話ではない。

教育実習生が少ないなあ、なんて思っていたら、どうも自分の周りだけの話ではないらしい。いたるところで、実習生自体が減っていて、昨日、公立の先生と話したら、そこそこの大学の学生が特に減っていると。

というわけで、学校の先生がなり手が少なくなって、先生が不足する。

「そうなると教育が崩壊するってことですね」と頷いてくれるかもしれないけれど、そう簡単に崩壊はしない。今のところ、突然先生がやめたりすると代わりが見つからない感じの「困ったなあ」はあるけれど、採用試験の倍率はまだ一倍を切るようなことはなく、つまりもうしばらくの間、なり手はいるということだ。

教員がブラックだ、というのはある意味で間違いない。

でも、これを自由市場の社会と捉えてみた場合、それでもいわゆる派遣とかバイトとかとは違うし、ある一定の給与が保証されるわけで、社会の行き詰まり感と比べれば、どんなにブラックでも、それでも職を求める人は出るだろうし、そう簡単に崩壊しない。

もちろん、この発言は、教員のブラックな環境を肯定しているものではない。市場としてとらえるなら、大変であっても一定の給与があれば人は集まる。人気は出ないかもしれないけれど、人が足らなくなるかと言われれば、きっとみんな妥協して教職につくこともある。ただ、それだけの話。人が集まるから改善しなくてよいなんて、微塵も思っていない。

じゃあ、なんで崩壊って話になるのかというと、結局、教職というものが「市場」に出されて他職種と競争して天秤にかけられているということだから。

もちろん、私立の学校もあるから、学校が競争とか市場とかと無縁であることはありえないのだけれど、教育全般については「公」のものであって、みなに行き届かないといけない。

でも、そこに市場が入り込んでサービスとして成立するとそうはいかなくなる。

生徒や保護者は、教育をサービスとしてとらえて、何かしらの形をほしがる。本来サービスとは、何かしらの費用の対価として提供されるものだけれど、この場合は曖昧。でも、「払ってないから」ではなく、「税金はらってるんだから」という曖昧な意識の中で、無限の対価を求められる。

サービスを提供する側からすれば、要はもらっている給料に対して業務はどうか、という問題になる。現実問題として、公立の先生からすると、毎日12時間ぐらいは軽く働かされつつ、しかも新人とかあるいは再雇用とかだとせいぜい月給で手取り20万を越えたぐらいだろうから、時給換算ではたぶん1000円ぐらい。

となると、そこらのアルバイトと変わらないから、他に割のいい仕事があればいくらでも辞められる。

サービスを求める側は、無限にサービスを求めるのに、提供する側にそれに対するペイが支払われていない、待遇が伴っていない、ということになると、自由市場において、労働者がいなくなるのは当たり前の話だ。

では、今まで何でやってこれたかというと、それはサービスではなかったから。つまり、「公」が提供するものであり、それはいただけるありがたいものであり、それを指導してくれる先生には感謝をするものだったから。

先生そのものが尊敬や感謝の対象であり、おそらく宗教とか医療とかと同じ領域にあったはずで、でも、そういうものが崩壊して、ありとあらゆるものが、サービスという形に変化している。医療もきっと大変だろう。

だから、学校は崩壊しないけれど、教育は崩壊する。

尊敬や感謝が必要なわけではないけれど、それがなくて当然のワードになれば、逆にボランティア的な、自己犠牲的な、「尽くす」行為がなくなる。時間が終われば、要求されたことをすれば、それでよいわけだ。

だから、実は大きな問題になっているのは、教員が不足していることでしかない。こういうサービスと化した教育において、教員の質とか内容はどうでもいいのだ。

資格のある人がサービスを提供できるか否か。

だから、議論からすると、資格のある人を増やせばいい。定年遅くしたり、免許を持っていない人が教えられるようにしたり。

そして、誰にでも同じ質の教育が提供できるように、サービスはマニュアル化されることが望まれる。でも、そうなった瞬間にマニュアルに書いてあること以外を提供する必要はない。コンビニやファーストフード店に、余計な雑談的接客は必要ないのだから。

しかも厄介なことに、客はサービスで学校を選んだりしないので、公教育においては、マニュアルの内容とか、それ以外の付加価値なんていうものは議論にならない。ひたすら、問題とされるのは、誰にでも提供できるサービスのマニュアルであり、それを遂行する教員が、いかに楽に仕事をできるかという、人材確保の競争にしかならない。

おそらくそうなった先には、放課後の塾であるとか、私立としての学校選びとか、結局はお金とサービスがリンクする本当の、自由競争の場に教育が移行してゆく姿があるのだと思う。

残念ながら、すでに学校内においても、職人のように築き上げたノウハウを共有するシステムも失われつつある。教員間も、業務でサービスだから、そんな伝承は、仕事に入っていないし、それを伝承とするのは時間外であるなら、伝承される側がそもそも断るような状況になるし、ましてそれが「うるさいベテラン教員のおしつけ」と取られるリスクがあるなら、伝承する側も時間外にそんなリスクをおかす必要がないのだ。

でも、教育実習生がいないというのは、それでも驚き。しかも圧倒的な速度でそれが進んでいる。部活動の地域移行なんて、何年かかるやら…と思っていたけれど、案外数年のうちに限界を迎えて、学校が放り投げるような気もする。