不適切にもほどがある~コンプライアンス

フジテレビの話の続き

世間はなかなかおさまらない。たぶん、ずっとおさまらないと思う。

いいか、悪いかといえば、悪いに決まってる。だいたい、どんな企業だって、どんな人間だって、悪いところはあるに決まっていて、今回の場合、具体的に被害者がいるわけだから、悪いに決まってる。

そもそも愚痴ってしまえば、どうやったら収めるつもりなのか。認めたらか。謝ったらか。それとも無実が証明されたらか。

最後のパターンだとすれば、絶対悪いことはあるはずだから、きっと許されることはないのだと思う。いまや、これは社会全体の流れ。

きっといつまでも許されない。

で、そんなことを書いていると先にすすまないので、今回はコンプライアンスの話。

みんなコンプライアンスがどうのこうのというけれど、それは「現在」の視点。「不適切にもほどがある」じゃないけれど、20、40年前は、そんなものないのだ。だって言葉がないんだから。

言葉がないということは、概念がないということ。

煙草は職場で平気で吸っていたし、学校で体罰だってまかり通っていた。まあ、体罰の場合は「体罰」っていう言葉は存在していたし、なんなら教育基本法で体罰は明確にだめって規定されていたけれど、そんなことでなく、美しいものですらあった。「スクールウォーズ」を見てみんな涙していたわけで、今ではその瞬間退職させられて、ネットで血祭りにあげられて、裁判で負けて、暴行罪で逮捕される可能性すらあるわけだけれど、あの時に関しては、みんながその体罰に感動していたわけだ。

まして、言葉がない、ということは、認識すらしていない可能性が高い。

勘違いしてはいけないのは、だから問題にするな、というのではない。現在の視点から見て、「昔は問題だった」「ありえない」と語ることは重要で、だからこそ先にすすめる。

認識がなかったから「問題がない」ということもない。被害者にとって辛かったとするなら、認識されていなかったとしても問題であることは間違いない。過去においてどんなに認識されない問題であっても、見過ごされた問題が今、言葉を与えられ問題となることが間違っているわけではない。

僕が書きたいのはそういうことではない。

その時の社会、つまり、多くの人たちが認識できなかったことを忘れてはいけないということ。僕らは常に社会に影響されながら考え方をあらためている。でも、いつの間にか僕らは昔からずっと、自分が正しい考え方をしてきたという前提に立ってしまう。

今と5年前は違うし、10年前、20年前は違う。

接待文化なんて、名前がついたのかもしれないけれど、そもそもそんなことを言い出したら、「接待」というものがかなりあやしい。でも、確かにそういうのが当たり前の時代はあったし、若手が率先して飲み会に行く時代もあった。それが当たり前でないどころか「悪」となった現代からすれば、批判するのは簡単だけれど、その時代を生きていた人はみな、ある種「悪」の常識を共有していたわけだ。

昔を懐かしんでなどいない。悪なのだから。

ただ書きたいのは、みんな自分の常識がアップデートされて、昔に悪の常識を持っていたことを忘れていること。

今、ありえなくても、昔はありえたことを無視して議論してはいけない。

僕は今でいう「イケてない」グループだったから、合コンも縁がなかったけれど、イケてる人たちは合コンをして「王様ゲーム」があったりして、そういう時代を生きてきている。それを今から、「接待」だ、「上納」だ、「強要」だ、と言えば、確かにそうなのかもしれないけれど、縁のない僕も含めて、そういうことを普通に許容してきたことは間違いない。

くどいけれど、もう一度書く。だから今批判するなということじゃないし、許容されるべきだと言っているのではない。自分がそれを許容してきたことを忘れずに、自分自身を反省するべきだと言いたい。それはつまり、フジテレビ的なものをスケープゴートにして、「叩いている以上、自分は善だ」というように、誰かを叩いて自分を安全地帯におくことをやめよう、と言いたいだけだ。

今回のもともとの問題は、現代の話だから、起こった事案とフジテレビの対応は、当然、現代の視点で語られるべき。

でも、社風とか企業風土とかを語る時に、20年前、30年前の話を出して、現代の視点で語ってはいけない。その時にはそれを見過ごしていた自分自身の視点にも刃を向けるべきなんじゃないかと思う。

他のマスコミについていうなら、きっといつ自分に刃が向いても不思議ではない。今は「ブーメラン」なんて言葉もあるように、だからこそ、そうなる。

広告出稿しないで安全地帯にいるスポンサーたちも、何十年も遡っていけば「接待」なかったんですか?という話にならないはずがない。

そんな話。