オリンピックの辞退と代償

また世間では、「代償」の話で持ちきりだ。

オリンピックの体操選手が喫煙と飲酒で辞退せざるを得なくなった。で、それは厳しすぎるとか、たかだかタバコでとか言うと、今度はその人が叩かれる。おそろしい話だ。

そもそも高校野球では…なんていう言説も出てくるけれど、いつの間に、人々は高校野球の、高野連の、あの連帯責任的なものを好むようになったのだろう。自分が物心ついたころから、ある程度見識を持った人たちは、あの高野連的な感じを馬鹿にして、やり玉にあげていると思っていたのだが、いつの間にか世の中は、あの感じがスタンダードになったみたいだ。

もちろん、今回の場合は連帯責任ではなく、自己責任。まあ、だからいいっちゃいいのかもしれないけれど、それにしても今回のことを正当化する例に使うのが、高校野球とか高体連とかって、自分の感覚では信じられない。厳しすぎてやり玉にあげられてきたものの象徴で、せめて使うなら野球以外の競技をあげたくなるのが、人情というものだ。高校野球と高体連を例にあげるなら、「そういう人」って思われるような気がしてしまうから。

にもかかわらず、平気で高校野球と高体連が持ち出されるのは、時代が変わったからだろうか。いつの間に人々はそういう厳格な、厳しい処罰感情をスタンダードにしたんだろう。

それとも、「論破」的なものを好む時代の中で、とにかく今の、自分の考えさえ正当化できれば、何を例に持ち出そうか関係ないのだろうか。

まあいいや。

どっちにしたところで、自分の感覚とはだいぶ時代や社会が離れていったことは確かだから。

いけないことはいけない。自覚にかけた行動。こんなことは議論の余地がない。

許されるのか?許すのか?見て見ぬふりはできないし、何らかのペナルティは当然必要。こんなことも議論の余地はない。

余談だが、ナショナルトレーニングセンターで…って話だと、結構ペナルティはそもそもあるはずで、施設の出入りができなくなったり、使用させてもらえなくなったりするはず。ひどいと、その競技が締め出されたりするはず。となると、対象者が怒られないはずがない。

というわけで、議論したい人は、ペナルティとしてオリンピックを辞退させる必要があるのかって提起するんだけど、許さない人は「許すのか」って話にしてくる。

つまり、代償の話。

どんなに、見合うペナルティを…って話しても、「許すのか」とすり替えられてしまうと、どうにもならない。それこそ逆に「許さないのか!」と問い詰めたくなるぐらい。でも、そんなことをしたら、同じレベルになるからしない。

ただ、間違いなく憂うのは、ひたすら世の中が不寛容になってきていること。人は必ず失敗をし、間違いを犯す。だから、たたいているその人も、その人の子どもも、いつか必ずその中に巻き込まれる。

残念なことに、だからいつか自分にその刃が向いてくるよ、という警告はきっと意味がない。おそらく、その間違いを犯した時でさえ、その不寛容な人たちは、他者にその刃を向け、システムや管理や、そういう原因に向けて刃を向ける。

なので、私が憂いているのは、いつでも寛容であろうとする人が、きっとその刃を受けとめるんだろうな、ということ。

たぶんどうすることもできない世の中のムードを感じる。

というわけで、ちょっと暗くなってしまう今日このごろ。

反省してもらって、みんなが許して、オリンピックで活躍してくれたら最高なんだろうけど、そうはいきそうにない。まあ、現実的にこんな日程、スケジュール感で、そこまではいかないから無理なんだけど、「辞退」っていう、いかにも日本的な解決に追い込んでおきながら、追い打ちのように叩くってどうなんだろうとは思う。

叩いている人は、どんなに自分から辞退したっていっても、責任感が足りないとか、悪いことには違いないとか、きっと言い続けるわけで、どこまでも不毛だ。

ため息。