罪の認識と同調圧力

なんとなく、あの問題について書き残しておきたい。

 

行われたことは間違いなく犯罪であるので、行われたことが確かであるとするなら、まず、ここに何かをさしはさむ余地はない。もちろん、それが確かに行われたことであるのかどうか疑義をはさむ人もいるだろうし、これから出てくる被害者が全員確かに被害者かということはなんらかの確認が必要なのかもしれないけれど、現時点において、ただ報道を見聞きしている僕らからすれば、「確からしい」ことは間違いなさそうで、だとするとそれは「いつの時点においても」「犯罪」であり、それ以上でも、それ以下でもない。

 

しかし、新しく社長などという責務を背負っていた人に、「それを知っていたのか」「なぜ確かめなかったのか」「行動を起こさなかったのか」などと責任を追及する様子を見ていくとなかなか難しいものを感じはじめる。

 

もちろん、その当時において経営に責任のある人は別だ。犯罪の可能性があることを見聞きしているとするならば、そこに責任は生じるわけで、そこを追及することは当然のことだ。

 

しかし、そうでない場合はどうなのだろうか?

ふと考えてしまう。

もちろん、ある種の「悪」を確実に把握したとするなら、善意の第三者であってもある種の責任は生じるだろう。たまたま犯罪を見かけてしまった時、それが「確か」であると自覚したなら、「見ないふり」には責任を生じる。

しかし、「噂」であるとするなら?

「確か」だと確証が持てないとするなら?

それはどうなのだろうか。

もちろん、道義的にそこを確認して追及しなかった責任はあるのかもしれない。でも、この問題の場合、おそらくきっとそのことを「みんな」知っていたのだと思う。

それこそ、芸能の世界と何の関わりを持たない一般人の大学生だった私ぐらいでさえ、その「噂」は確からしい噂として把握していたわけだから、メディアの世界の人とか、芸能の世界の人とかそういう人たちが知らないはずはない。

でも、確かだという確証がない限り、あらぬ噂や根拠のないゴシップである可能性があるとすれば、動かないのは当たり前。

根拠のない噂で大騒ぎをすれば、それこそフェイクニュースを広める輩と大差はないわけで、「確からしい」としても「確かではないのだから」と言い聞かせて、僕らは貝になっていくわけだ。

まして相手が権力であるとするなら。

そういう構造の中でみんなが貝になって、見ないことにして、黙ってきたわけだ。

で、こうして発覚すると、メディアの人が新しい社長などの責任を持つ人に追及をはじめていく。

しかし、過去においてあなたはどうだったのか?そう矛先を向けられて、はっきりと「私は戦ってきました。訴えてきました。」と胸をはれる人はほとんどいないに違いない。

そういう状況において、「知っていたのか」「行動しなかったのか」と詰め寄ることははたして正しいのか?

結局は、みんなが黙っている時は沈黙し、みんなが声をあげたからその流れに乗って自分を正当化しているだけにすぎないのだ。

僕らは過去を忘れる。

得たいのしれない雰囲気は、まさにみんなで作りあげたもので、もちろん自分だって他者からすれば「みんな」の一員に過ぎないのだけれど、僕らは「みんな」の圧力によって、自分が正しくない選択を強いられた、と解釈する。

だからこそ、本来、その当時責任をとれた人、行動を起こせた人、つまり「みんな」の中でも責任の重い人を必要としているわけで、そういう責任を誰かに押しつけながら、「あなたが行動しないから、みんながこうなったんですよね?」とでも言いたげに質問をしていく。

でも、その追及されている人だって過去においては、みんなの一員に過ぎず、責任を持っていたわけではない。今、責任を持っているだけで、当時はなかったし、あるとすれば、みんな、つまり、あなたと同じ程度の責任のはずなのだ。

メディアは、そしてそれを受け取る僕らもその責任には触れない。触れたとしても、「もっとなんとかできる誰かがいたんじゃないのか」という形でしか触れない。

でも、メディアは本来、その「みんな」を形成するそのものであって、むしろ責任しかないはずなのに。

 

とはいえ、この問題、このテーマの難しいところは、次の点にもある。

なぜ、当時追及できなかったかといえば、見過ごしてきた責任による罪悪感もあるだろうからだ。

僕らはなんとなく知っていたのに、「確からしいけど、確かであるという確証はないから黙る」という選択をした。その責任、その罪悪感は、追及の矛先を鈍らせる。

黙ってしまった自分。だから責められない。一度黙ってしまうと、みんな同罪だよねとばかりに、黙らせる同調圧力が働く。

そして、今までこうなったわけだ。

二度と起こさないためには、追及は欠かせない。

しかし、良識があって、罪悪感をもつメディアの人は、きっと追及の矛先を他人に向けきれないのだろうと思う。

それでもなぜ、こうなったのかを自らも含めて明らかにしていかないといけないのだと思う。

結局は、ある種の同調圧力の問題で、その仕組みをどう暴くかという話でもある。

そして、過去の問題を現在の自分からだけ考えず、過去の自分のありようを正確に読み解こうとする作業でもある。

でも、そんな面倒なことをするメリットは多くの人にはないから、とりあえず自分よりももっと責任のある人を見つけて、そのせいにしていく。

同調圧力というのは、結局は責任の問題で、自分の責任から目を背けようとする仕組みなのだろうなと思う。