人を信じるということ

世間は大谷くんの話題で持ちきりだ。

 

人間はいいときばかりでなく、必ず悪いときもくるというような、運命論さえ感じてしまう。人生を作ってきた大谷くんでさえこうなるとするなら、悪いときはじっと耐えるしかないし、それを乗り越えて学ぶことが人間には必要なんだ、という学びさえ起こってしまうかもしれない。

 

それはさておき、人を信じることは難しい。そもそも信じるというのは、何なのか。人を信じるといったとき、人の何を信じているのか。過去か、実績か、言葉か、行動か、思いか、性格か。仮にひとつに決めたとしても、「じゃあ性格って何?」っていう問題につながっていってしまう。

きっと、大谷くんだけでなく、なんだかわからない僕らだって、何かを信じて発言している。

 

というより、むしろその前提で全てが始まっている。

不倫をした人だって、たたかれる人とたたかれない人がいる。普通に復活する人もいれば、いつまでもたたかれ続ける人もいる。そういうものを一言で片付ければ、「人」。いろんな人のケースで、いろんな人が、いろんな観点で語るが、何を言ったところで、それは「人」。

 

炎上するような有名人に限らず、僕らは結局「人」で見られている。

僕がやっているような仕事でいうと、「いい先生」と「そうでない先生」とかそういうものはあらゆる場面で結局は決まっていてそれでみられていく。

たとえば、クラスで問題が起こったときに「あの人のクラスだから」と言われることもあるけれど、「いい先生」のクラスで何か問題が起こったとしても「あの先生でもそうなるんだから、よほど生徒が悪いんだよ」なんてなったりする。

要するに、先に評価が決まっていて、そこで全ての事象が説明される。

そんなの仕方ない。だって、同じ事を人や方法を変えてふたつの結果を比べる…なんてことはできないわけだから、どうにかなったのか、どうすることもできなかったのかなんて誰にもわからない。

それが「信じる」ということ。

まあ、すべてはそんなもの。

大谷くんにしても、通訳にしても、コメンテーターにしても、僕らはどこかで「人」の評価をしていて、その「人」が何を言っているかによって、考え方が変わる。発言を「信じる」前提には、「人」に対する信仰がある。これは必ずしもポジテイゥヴなものではなく、ネガティヴな意味においても。

つまり、ある程度のポジティヴな信頼がある場合、発言は好意的に受け取られ、ネガティヴな評価が定まっているとするなら、「そうはいっているけれど…」と説明を信じてもらえなくなっていく。

せめて、僕らはそういうあまり根拠のない信仰の中にいるということを自覚したいものだとは思う。そういう曖昧な中で、同じことが起こっても「人」が誰かでどんな評価がされていくわけだ。

で、結局、僕らはそういう曖昧な信仰から逃げることはできない。そういう枠組みは必ず存在していて、それをなくすことは不可能だ。

逆に言えば、評価を避けることは思考を止めることともイコールで、だから別に自覚さえしていれば、多少なりとも偏見がまじるような予測や意見がいけないわけではない。

ただ、それは本来、ただの推測で、憶測で、ちゃんと知らない「人」を勝手に評価して、その枠組みでなんとなく考えるようなものだ。

そう。

いけない訳でもなく、飲みながら、家族や友人と言いたいことを言い合う、その程度のことだと思う。

問題なのは、飲み屋でおっちゃんがつぶやいたことが世界に広まったりはしないし、家族と家の中で子どもに嫌な顔されるような話が、誰かに引用されたりはしない。

でも、今はそうじゃなくて、SNSでつぶやいたことが記事に引用されたり、ヤフーコメントが読まれて、それが常識という枠組みをつくっていたりする。

本当に怖いことだと思う。

でも、ぼくらはもうそういう中にいる。僕ら自身が、会ったこともなければ、つきあったこともない、友達でもない人を、平気で決めつけて発言して、その発言がまた誰かの常識を作っていく。

まあ、そんなことを思う。

おそらく、だけれども、人間は普段の振る舞いと常に何もかもが結びついているわけではなく、ある部分ではとてもいい人であっても、裏でどんなことが起こっているかはわからないこともある。「ことも」であって、そうでないケースも当然あるだろうが、人間はそんなものだ。すごい悪人が、毎日悪人かといえば、突然善行をすることもあるだろうし、ある分野だけ、突然悪人になることもあるはずだ。

でも、僕らはよくわからない会ったこともない人の「人」を信じているから、理解できなかったりするんだと思う。

今回の話は、なんとなくだけれど、たぶん僕らが見えていた、彼らの関係は確かにそういう憧れるようなものとして存在し、彼もそういう振る舞いをしていたはずで、そういう意味でいえば僕らが見ていたものが間違っているわけではないんだと思う。

でも、きっと誰にも見えていないところで、当たり前だけれど、彼の行動や考えがあったりして、それはきっと彼らの素晴らしい関係とは切り離さないといけない。

だから、彼の発言が撤回されたことさえも、こうした文脈で見てはいけない。最初から大嘘だから撤回しなくちゃいけないのかもしれない。彼を「大嘘つき」として見ている人はきっとそうとしか見ないし、彼を「正直な人」として見ている人は「外部的なプレッシャー」や「政治」として見るんだと思う。そんな文脈がそもそもただ信じられているだけなのに。

どっちにしたって、僕らにわかるわけがない。僕らより専門的知識があるだろう専門家やコメンテーターだってわかるはずがない。まして、それを聞いた僕らの意見なんて本当はまったく意味がない。

そもそも、ただ信じているだけの話で、根拠や理由なんて曖昧なものだから。

実際には、当事者の大谷くんが一番「信じる」ことの難しさを痛感しているはず。そんな問題であるにも関わらず、外野の僕らは自分が「信じる」力がある前提で、好き勝手に展開していく。

信じることって難しい。