入試と疲弊の季節

入試が行われている。

 

入り口も、出口も。

この季節になると、つくづく人生の分岐点のような厳しい場面に直面する。他人の人生の岐路のような場面に、毎年必ず直面するのはあんまりうれしいものではない。疲弊するし、重くなる。

 

もちろん、たまにはそういう場面に出会っておかないと、自分の立場の戒めにならないので、どれほどの思いをして生徒がこの場にいるかということはこうした経験によって思い知らされるから、必要なことは間違いない。

 

でも、毎年…というのは、疲弊するし、重い。

そして、厄介なことに人間、自分自身のことでもその瞬間をくぐり抜けてしまうとその重さを忘れることが多い。もちろん、うまくいったとか、いかなかったとか、そういう結果はきっと重くて頭とか心とかに残るのだろうけれど、そこにいたるまでの過程とか経過とかそういう部分への反省というか思いというものは、残っていないことが多い。

 

だから、誤解を恐れずに書いてしまうと、毎日の授業やHRの話は常に軽く受け止められ、流され、不必要なうるさい話で、つまらないものになるのだけれど、入試が近づいた時には、どうしても必要な授業や面談になり、しかも人生かかってるんだから、つきあってくれて当然ですよね、みたいな感じになる。

 

それでも人生かかっていることは間違いないから、付き合わないわけにはいかないし、だから疲弊するし、重い。

 

本当は、入試から遠い一日も、入試直前の一日も重みは一緒でやれることは一緒。もっといえば、入試の合否だけでなく、そこまでどんな努力をしたかとか、どんな経験をしたか、どんな考え方をしたかという経験だって、大事な分岐点のひとつひとつなんだけれど。

 

とはいえ、そんな日常が重要な決断の積み重ねで分岐していくひとつひとつだ、なんていう真実は当たり前だけど疲弊するし、重い。

 

だから、真実は伝えるにしても、そう行動することを当然と強いることはとてもできないし、無理だろうなと思う。

 

となると、毎年の疲弊の季節を受け入れるしかなくなる。

 

時代だと思うけれど、受け入れている疲弊と重さは、どんどん感謝されるものでなく、当然の業務で義務となってしまってくるから、やりがいのようなものもどんどん薄れていく。そういう中で、それでも他人の人生が決まっていく重さにちゃんと向き合うことが求められるわけで、年も年だし、もういいよねとつくづく思う今日この頃。

 

とはいえ、人生100年時代に入り、老後ウン千万円問題もあるから、そう簡単に好きなことだけやってるわけにもいかない。

 

というわけで、仕事は仕事として、やりがい的なものを極力ちゃんとしたボランティアに求めようとする今日この頃。仕事の時間のボランティアは解消しないとだめだよね。