「おしいれのぼうけん」と時代の変化

「おしいれのぼうけん」という童話を知っているだろうか。調べてみると、1974年に発表されたふるたたるひの名作だ。

保育園が舞台で、昼寝とかの時に大騒ぎをすると、罰としておしいれに閉じ込められ、そこで、こどもは「ねずみばあさん」と出会う。保育園の先生たちも、こどもたちが「ごめんなさい」というのを待っているけど、なかなかいわなくて…

というようなお話。

人形劇の中のねずみばあさんに、実際におしいれの中で出会って…というようなものが話の軸で、このねずみばあさんのキャラクターが立っていて、グッズができてしまうような、有名な作品ということになる。

で、なんでこんな話を書くかと言えば、不適切保育とかが話題になったから。

閉じ込めたり、怒鳴ったり、殴ったり。門扉が開いていて、コンビニで保護された…なんていう話題もあったし。

いずれも「不適切」であることは間違いない。

別に、「不適切だけど許せ」とか、「不適切なことでも教育には必要だ」とか、そんなことを書きたいわけではない。

もはや、ちょっとそんなことを書いた瞬間に炎上する時代は確実にやってきていて、「不適切」なものは不適切として認めるしかないし、起こさないように気をつけるしかないし、起こしたとすれば非を認めるしかない。

保育園とか学校とかという教育の現場において、あるいは親と子というような家庭環境において、はたまた習い事のような塾やスポーツなどの現場において、人と人が接する以上、残念ながら「不適切」な指導が起こることはある。必ず起こるのだから仕方ない、というようなことを言うつもりはない。起こることは仕方がないにしても、不適切であるなら起こさないように、起きないようにしていくしかないからだ。

まして、現代において、「起きても仕方がない」などという言説はそれ自体が批判対象であるわけだから、決してそんなことを書くつもりはない。

しかし、「おしいれのぼうけん」は、多くの場合「名作」として認められていて、おそらくきっと最近までそう思われていたはずだ。

もちろん、「おしいれのぼうけん」では先生が「ごめんなさい」と言わなくて、出したいのに出せなくて胸を痛めるシーンがあるとはいえ、そんなことで擁護できるのなら、きっと今問題になっている様々な不適切な指導にも「教育」という、先生の側の事情が持ち出されてしかるべきはずだ。

もう一度書く。

擁護するつもりはまったくないので、つまり、どんな理由であっても不適切な指導はいけない、というのが現代で、だからこそ、「おしいれのぼうけん」の指導は不適切な指導にほかならない。擁護できないのだ。少なくとも現代においては。

逆に言えば、それが擁護されていたり、あるいはもっと踏み込むと認められたりしていた時代が、少なくとも1974年当時にはあって、それが名作として認められてきた経緯を考えれば、つい最近までそういう教育観が支配されていたはずだ。

でも、現代は違う。

下手をすれば、その行為だけで、テレビのニュースに取り上げられ、謝罪会見の様子が流れたり、被害を受けた子どもの保護者のインタビューが流れたりするのだろう。

特に何を書きたいわけでもない。

ただ時代は変わったのだ。

この間も、廃案になったけれど、さいたまで、子どもをひとりにしちゃいけない、子どもをひとりで歩かせない、遊ばせない、という条例が可決されそうになった。

ぼくらの時代は「鍵っ子」なんて言葉もあったし、習い事に1人で行くことも普通だったけれど、それが「虐待」と紙一重のところまで、時代はやってきたようだ。

正直、この条例が廃案になったのだって、「そんなこと言われたら「親」は仕事なんてできない。ずっと子どもについていないといけない」という、親側の理由であって、決して、子ども目線の理由ではない。

「そんなことができればいいだろうけど、そんなことをしたら親が「個人」として、「私」として生きることができないから、行政が制度を作ってくれるならともかく、今のままなら無理です」

ということでしかないのだ。

結局は、大人の都合で、ある種の責任を行政的な機関に託して、その中で起こるさまざまな問題をある意味ではおしつけるわけだ。

怪我もするだろうし、病気にもなるだろうし、誤飲もするかもしれないし、ケンカもするかもしれないし。

いやそれどころじゃない。親や祖父母が子どもを車に置き去りにしたとしても、保育園に来ていないことに気づかない制度や機関の責任になってしまうのだから。

まあ、仕方がない。確かに気づけば防げたかもしれないのだから。

今や、家庭の問題でさえ、条例が入り込んでコントロールしなければいけない。そうしなければ責任が問われてしまう。

保育園の門扉があいていて、子どもが抜け出して、コンビニで保護される。保育園は通報を受けるまで、その子どもがいないことに気づかない。

もちろん、問題だし、管理が問われるのは当たり前。気づかなかった、では済まされない。それは当然。

でも、本当は子どもの問題でもあるはずで、もちろん言ったって聞かないんだよ、小さいころは…というのは大前提として、それでも何度も言い聞かせて僕らは大人になっていく。

少しずつ、僕らはそうした機会を失っていく。そもそもそうならないように、僕らは誰かの責任において管理されるわけだから。

かくして、僕らは「おしいれのぼうけん」なんてできるはずもなくなっていく。まあ、コンプライアンスにひっかかって、また発禁になったりするのかもしれないから、「おしいれのぼうけん」なんてしようとさえ思わないかもしれないけれど。

不適切な指導を容認せよ、なんてことではなくて、ただ、ちょっと悲しいというか、時代は変わったんだなと思う。

で、こっちはちょっと腹立たしいのは、ついこの間までみんなが許容していたことを、なんだか自分だけは「昔から問題だと思っていました」みたいな顔で発言すること。まあ、「昔は問題ではなかったんですけど、時代ですからね」なんて書いたら結局炎上しかねないから、仕方ないかもしれないけれど。