炎上と代償

もうここしばらくの話だけれど、ネット上には「炎上」というものがある。

なにかしら、よくないことをしてしまったことによって、「炎上」が起こる。それは行為であったり、発言であったり、犯罪であったり、モラルとして許されなかったり、さまざまなのだけれど、なんらかのきっかけでインフルエンサーやメディアに取り上げられ、拡散すると、一気に関係のない人や、直接被害を受けていない人や、それどころか実際に見たわけでもなく聞いたわけでもなく、また聞きのような形で、メディアにとりあげられた文面や内容で、怒りをぶつけたりということが起こってくる。

もちろん、まったくの捏造でないかぎり、そもそも「炎上」した人に問題があることは間違いないわけだから、その周りで文句を言っている人に何かいったとしても、「加害者をかばうな」とばかりに、「そもそも…」と「炎上」した人の問題点を指摘するという構造が続く。

ネット社会というのは、まさにこういうことで、「正義」が自分にあれば叩くことができる。いや、正確な言い方ではないな。「悪」がそこにある以上、自分は正義でいられる。正義の立場から発言し、正しい人間になることができる。むしろ、発言をして、叩くからこそ、正義になるのであって、もし叩かないとするなら、自分の正義が揺らぐとさえ、言えるのかもしれない。

しかしながら、失敗やミスをしない人はいないし、誰だっておおかれ少なかれ怒られてきたはずだ。そういうことを繰り返しながら、大怪我をしないような「加減」というようなものを学んでいく。いや、もしかしたら、限度を越えたから怒られたわけで、加減なんて学んでいないのかもしれない。しかし、たとえばそれが学校なんていう、ちょっと閉じられた特殊な世界で起こることによって、本当は大失敗で取り返しがつかないけれど、まあ、なんとかちょっとした失敗ということにされて、なんとか今を生きているのかもしれない。

というわけで、ネット社会の現代において、特に子どものちょっとした失敗は、あっという間に、社会全体で共有され、叩かれることになった。ネットの書き込みや動画であれば、「ネットの使い方を…」「リテラシー教育を…」というような形でしのげるのかもしれないけれど、実際にはネットの世界で起こっていない出来事であっても、どこかに記録され、それが掘り起こされて、ネットの世界で炎上するわけだから、もはや、炎上するかしないかは、それが記録されたかどうか、あるいはどこかでネットにあがったかどうか、そして、それが叩いてよい対象としてみんなに共有されたかどうかに尽きる。

運のようなものだ。

もちろん、毎日炎上が起こるわけではないから、依然として子どもたちの多くの失敗は、今までと同じように誰にも知られることなく、流れていくものがほとんどだ。でも、あるきっかけで、炎上してしまえば、それは取り返しのつかない事態となり、「そこまで書かなくても…」なんて書けば「いや、結局は自分がもともとしたことで…」とぐるぐるまわりはじめる。

要は「代償」の問題。

それはいけないことであったとしても、日本全国で共有され、みなから批判されるようなことなのかどうか。もちろん、話題としては皆が批判するに違いない。間違ったことなのだから。しかし、だからといって、それが日本全国から一斉に批判されることなのか、といえば、私は必ずしもそうではないと思うわけだ。どこでも普通に起こることであるなら。もちろん、ここで書く普通とかどこでもとかは、「それは普通にどこでも起こるからたいしたことではない」などと書いたつもりはない。だから、たいしたことのないことであったとしても、許されない罪であることもあるだろう。だから、みんながそれを「許せない」と思うのも間違いではない。そうではなくて、「みんながいつまでも許せない」なんて声をあげて、本人に届く形にする必要があるのか、ということだ。

現代において、朝のニュースのトップで、万引きや危険な自転車の運転がとりあげられる時代。それがたいしたことでない、と言っているのではない。それが、全国のニュースでトップで取り上げられ、まだそれがモザイクがかかっているからいいけれど、炎上という形でモザイクがはずれ、さらされるようなことなのか、ということだ。

常にこういう危険が、普通の生活の中にあるのだ。

今や、教員として、こどもたちの行動が、炎上につながらないことを祈るしかない。一端、炎上してしまえば、なんとかしてあげようという行為さえ、「そんな子どもを守るのか、隠すのか」となりかねないのだから。