自分らしさと孤独

ネットにわざわざ馬鹿なことをやって、そして炎上する、という出来事はずっと続いている。

承認欲求といえばそれまでだけど、そもそも承認欲求がないなんてことはありえないし、それは満たされていないから爆発するか、あるいは承認されていることに気付かないから爆発するだけで、少なくとも爆発していないからといって自分は承認欲求なんてないなんて思うのは間違いだ。炎上している人が承認欲求モンスターなのではなく、あなたが恵まれているのにすぎないだけかもしれないから。

ネットにわざわざ馬鹿なことをあげたいのは、バズりたいからというか、見てほしいからであることは間違いない。つまり、逆に言えば、見られていないという感覚があるから、もっとやらなくちゃいけなくなる。

いいねがなかったり、コメントがなかったり、アクセスがなかったり。

だから、あの手、この手で見られたいと思うわけだ。もちろん、ブログかなんか書いてアクセス解析かなんかしてしまえば、本当に読まれていないことに気付くかもしれないけれど、いわゆるSNS系のものの場合、いいねがなかったり、コメントがないからといって読まれていないとは限らない。でも、反応がなければ見られていないような気がするし、そもそもインフルエンサー的な人と比べれば圧倒的に読まれていないわけで、だから、もっとおもしろいことをやらなくちゃいけないし、仮にちょっと過激なことをやったとしても、そもそも近い人しか見ていないわけだから大丈夫なわけだ。

ここがそもそもの矛盾ではある。

もっと見られたいから、もっと反応がほしいから、ついついやり過ぎちゃうわけだけど、仲間うちしか見てないわけだから大丈夫。実際、今までだって誰も見なかったし。みたいな矛盾した感覚。

というわけで、今や誰でもどこでも炎上できる。

そもそもネットの世界や、SNSの世界に居場所を求めるというのは、リアルの世界からの脱却という側面がある。リアルの世界に友達がいないとか、おもしろみがないとかそんなことではなく、ただ、自分の別の可能性というか、現状から脱却して、どこかにジャンプしていきたいようなイメージ。そこには、そこはかとなく、リアルの世界で回りに合わせることに疲れ、決められた役割を演じることに疲れて、ジャンプしてどこかに行きたいような衝動があるんじゃないかと思う。

でも、結局、そこには同じような社会があって、他人からの反応がなくちゃやっていけない。いいねをもらって、コメントをもらいたい。それがなければ、なんだか無視されているような気がする。

ネットの世界は気楽なような気がしてみんながやってくる。決められた役割とか、ポジションとか、決めつけとか、そういう自分をしばりつけるものが、不特定多数の他者という環境の中では比較的流動的になって、もっと自由に演じられるし、変更できるから。

でも、実際はネットの社会では、なんらかのデータ、写真であったり、コメントであったり、いいねであったり、動画であったり、そういう何かがなければいないのと同じで、そこに反応がなければ無視されたも同然だ。

リアルの世界では、何にもしなくても、何も発言しなくても、それなりに存在感を示してそこにいることができるし、何も発言しなくても、退屈や共感や興味や嫌悪を相手に伝えることもできる。

でも、ネットの世界では、なんらかのデータとして与え、与えられないと存在しないのと一緒。

かくして、ひたすらネットにデータをあげ、なんらかの反応を引き出したいという欲求がその行動を作り上げる。

誰にも見られていないから多少踏み越えても仲間うちだから大丈夫で、ちょっと踏み越えない限り、その仲間うちが広がることはない。

いつどこで誰が炎上するかは、運というか、タイミングというか、そんなことではないかと思う。

それでも、そうやって同じようなことが続くのは要は人間が孤独であるからだということだと思う。

人間はそもそも孤独だ、ということではない。

たぶん、人間はそもそも孤独にはなれなくて、常に関係の中にいる。でも、僕らはそこに嫌気がさして、そこから抜け出して、みんなとは違う何かを得ようと思う。

でも、そのためにはやっぱり誰かに認めてもらわなくちゃいけなくて、ネットの世界の中でひたすら反応を求める。

いうなれば、人間は結局孤独にはなれないし、関係の中から逃れられないのに、そういう関係を否定して、ひたすら一人になろうとする。みんなから決めつけられた自分じゃなくて、自分が決めた自分になりたい。でも、そのためにはみんなにそう認めてもらわないといけない。

原理的にかなり無理なことをしているから、結局、認めてもらえないという孤独のうちにいる人が大半になる。

それにしても、こういう炎上が子どもに起こっているのを見ると本当に辛くなる。

だって、誰しもそういう葛藤の中でやりすぎたりすることは経験して大人になるわけで、それなのにその舞台がネットとなる現代では、とりかえしのつかない傷になる。

僕らのころは先生や親にこっぴどく叱られて、下手すれば何でどう怒られたかなんて覚えてさえいないのに、今や、日本中で共有されて傷として残る。

もちろん、企業に与えた損害とかもあるわけだから、何もないというわけにはいかないかもしれない。それでも、たとえば補導されたりすることと、テレビやネットに自分の話題が出続けることはレベルが違う。

そして、それを教育できなかった学校や親の責任も問われるんだろう。この果てしない、傷のえぐりかた。

そうなるかならないかは、きっと運でしかないのだろうと思う。

人間関係は面倒だけれど、そうはいってもその中でなんとかやっていけるように関係を作っていくことを大人としてやるしかないんだろうなと思ったり。でも、その関係の有り様、みんながのぞむ関係が変わっている以上、きっと新たな関係をどこかで作っていくしかないんだろうなとも思う。