3.11

3月11日に書くとちょっと重そうだから、ずらして。

たぶん自分が生きてきた中で、決定的に世界が変わる経験というのは、9.11のテロ、3.11の東日本大震災、そして今回のコロナだと思う。

なんだか世界が変わってしまうんじゃないか、この日常が途絶えるんじゃないかっていう衝撃はこの3つだと思う。

阪神大震災とか中越が入っていないのは、僕が首都圏に住んでいるからで、決して軽視しているわけではなく、要はそれでもひどいのかもしれないけれど、ある種のリアリティがなかっただけだ。本当に近くで起きれば、交通事故だって、火事だって、強盗だって、世界が変わってしまうような大きな出来事で、僕の場合は、この3つだったということ。

そして、共通していえるのは、喉元を過ぎてしまえば、本当に何もなかったかのように毎日は過ぎてゆく。あの時は、そんな日が来るなんて想像もできなかったけれど。

忘れることは重要で、そんな重たいものを背負って生きていくわけにはいかないし、重い物を背負うと下手すれば「笑っちゃいけない」ぐらいの悲壮感まで背負う羽目になるから、忘れるべきなんだとは思う。

でも、なかったことのように過ごすわけにはいかないし、あの時に感じたことや思ったことを忘れるわけにもいかない。

人は大体勝手だから、そういう大きな出来事の現場に立てば、ヒステリックなまでに大騒ぎをする。あの当時であれば「安全・安心」みたいなことで、放射能のホットスポットと騒ぎ立てられた地域に住んでいる僕は、たとえば、子どもの安全のために外に出すのはやめてほしい、放射能が危険だからプールの屋根を閉めてほしい、なんてことを平気で、いやそう騒ぎ立てる人は自分こそが正義で正論で安全を唱えていると言っていたことを忘れない。でも当人たちは、きっと自分がそんなヒステリックに騒いだことなんてきっとみじんも覚えていないか、あるいはそれはそれで正しかった、なんて正当化するのに違いないだろう。

僕の場合は、その程度のことだからいいけれど、農作物とか、水産物とか、そのあたりの風評被害なんて目も当てられなかったに違いない。

でも、きっと今になってしまえば、そうやって騒ぎ立てた自分なんて覚えていないし、ずっと自分はまともだったと思うに違いない。

コロナも同じようなもので、マスクが外せるようになったらみんなうれしいはずだし、マスクをしなくていいんじゃないか的言説をしだすけれども、そういう人たちだってヒステリックな感染対策をとなえていたことはたぶんきっと忘れ去られるんだろうと思う。

話を戻そう。

日常は続いていくだけで奇跡で、その日常が尊いということをあの日、僕は痛感した。

電力が不安定になり、計画停電が起こって、ガソリンが手に入らなくなる。電車も動かなくなって、学校も休校になった。

地震のあった数日の話じゃない。地震がおさまった後の首都圏で起こったことだ。

それでも、本当の意味で被災したところに比べれば格段マシ。

もちろん近所には液状化だとか家の被害とかもあったし、道に亀裂が入ったりしたけど、電気が止まり、電車が動かず、車も動かせず、しばらく家にいるとはいえ、ずっとまともだった。

それでさえ、日常の尊さを思う。そして、もっと深刻に日常を奪われた、津波によってすべてを流された子どもの、そういう話には涙が止まらなかった。

だから、まだ日常が手にある自分の環境の、尊さを実感したものだ。

いやなもので、それでも新高校3年生を担任していた僕は、それでも仕事をしなければいけなかった。

ネットは普及していたけれど、スマホを持っている時代じゃないから、ホームページに課題とか、自習できるプリントとかをあげて、それで毎日、生徒に電話をかけて状況を聞いた。

ただでさえ、日常が失われている時に、日常を維持せよ、つまり勉強をするんだ、という電話。

まじめな生徒にとっては、日常が失われた人たちをテレビの中に見ながら、日常を続けることに罪悪感を覚えていく。

でも、と思う。

目の前に倒れている人がいるのを見捨てているわけじゃない。何か他人のためにできることがあるのに、自分のことをするわけじゃない。

僕らにはできることがない。

罪悪感にさいなまれて、日常を放棄しても、他人がそれで救われるわけじゃない。

僕らは、日常が残されている以上、日常を生きるのが義務だ。

なぜ僕らは、今、助けられないのか?

それは、僕らに力がないからだ。医者となって他人を救いたいと思っても、まだその勉強をしていない。災害のない街を作りたくても、まだその勉強をしていない。

だから、あなたは今、他人を救えない自分に歯ぎしりしながら、日常の勉強を続けて、いつかに備えるのだ。いつか力のある人になるために、あなたは学ぶのだ。日常を津波に流されて、学ぶことができずに歯ぎしりしている子どもたちがいるから、学べるチャンスがあるあなたは、学べる時に学ぶのだ。

そんなことを語るしかなかった。

もちろん、そういう危機的な状況に際して、学ぶ意味も問い直されて、どう学ぶか、学ぶとはどういうことかが考えられていくのはいいことだし、意味のない学習が意味あるものになるかもしれないし、こんなことはしてもしょうがないと気づくようなことはあるのかもしれない。

でも、日常の学ぶことの意味、大切さをあの時に考えたような気がする。

あれから12年もの月日が流れ、一回りすると、僕らはあの時のことを忘れる。きっと、コロナによって失われたものも忘れるだろうし、ヒステリックに騒いだことも忘れるのだろう。

でも、こうやって書き留めておいて、いつか誰かがあの時のことを思い出せるとするなら、こういう意味のないブログも意味があるのかもしれない。