「正義」と人

人はそれぞれ自分の世界を生きている。

自分の社会といってもよい。

ここには、面倒な矛盾に満ちたコトバが入っている。「自分」というコトバと「世界」「社会」というコトバ。

つまり、自分らしい、自分独自の、そういうものを常識として求めながら、人と関わる世界や社会を生きているということ。

残念ながら、私たちはありとあらゆるものを人と関わる社会の中で共有しているので、自分の常識や当たり前を、実は他人から受け継ぎながら作っている。コトバや身のこなし、感性さえも。

美しい、おもしろい、おいしい、というようなことさえ、他人とつくりあげている幻想的な概念なのだけれど、残念ながら僕らは、そこから離れて、自分らしい独自の概念を作りあげていると思っている。

というわけで、生きることはストレスがたまる。

どんなに自分らしくあろうとしても、実はその内心で周りの動向やトレンド、行動や考え方を気にしながら、そこに合わせてやっているのだから。

今日からマスクがはずせることになるが、周りを見ながら、落としどころを探っている。必ずしもみんなに合わせる、ということでなく、みんながはずさない中で、はずすという発言を選択する人もいるだろうし、みんながはずすから、あるいはさないから、マスクの必要性を唱える言説も出てくるだろう。

何を言ったところで、数ヶ月もすれば、3月から4月にかけて大騒ぎして、場合によっては声高に議論をしていたことなど忘れて、どこかに落ち着いていく。

コロナの外出とかと同じ。

コロナ当初は大騒ぎして、家から一歩も出ず、学校や外食店やショップが全部休みになるのが常識だったけれど、いつの間にか普通に外食して旅行できるようになっているように、マスクなんてしないところにいつか落ち着く。

それもこれも、僕らが周りの様子をうかがっているからで、かように僕らは社会や世界の中を生きていて、自分を生きているわけではない。

でも、たいていはそんなこと、つまり、本当は自分なんてない、なんてことは認められないから、昔自分が言っていたことなんて忘れて新たに出来た常識の世界を、自分はずっと生きていたように、発言して、認めていく。

厄介なのは、そうなるときに、仮想敵のような存在が必要で、ともかくそういう敵を作ることによって、はじめて自分の正当性を担保する。その正当性さえも、本来社会で共有されて、担保されるわけだから、自分ではなく、社会を生きていることの証明なのだけれど、僕らは周りの人が攻撃対象とする人をうまく見つけて、その人を攻撃しながら、自分の正当性を作りあげている。

まあ、だからいじめをすることと、人気者になることは、実は仕組みとしては同じことかもしれない。

みんなが認めている人をみんなと同じようにたたえることと、世間からたたかれている人を世間と同じようにたたくことは仕組みとしては同じだ。

もちろん、友達作りといじめは違うし、理由なくいじめをしたりすることと、みんなが認識する悪いことを一斉にみんなでたたくことはもちろん違うわけだけれど、起こる背景というか、心理というか、仕組みというものは同じだということ。

まあ、厄介だと思う。

みんなストレスはあるし、はけ口のように、そういうところにたたく人を作って、それで、自分の正義感が担保される。

世の中には、間違いがいっぱいあるのだろうけれど、でも、僕らが目にするものが本当にテレビでとりあげられてみんなにたたかれるべきことかといえば、ちょっと疑問に思う。まあ、こんなことを書いてさえ、起こったことに対する被害の大きさ…とかいう話にもなるし、実際に高額の賠償が必要なケースもあるから注意喚起という意味で報道が必要なケースもあるだろうけれど、それでもたまたまとりあげられたものと、意図的に取り上げられないものもあるわけで、僕らはそういうものにのっかりながら、攻撃していい「人」を見つけて、正当化していく。自分を。正義は自分にあって、なぜ正義かといえば、みんなが攻撃するような対象だから、ということなのだろう。

というわけで、マスクは外す方向なんだけれど、残念なことにうちの学校では、まだしてください、という感じなので、し続けるしかない。

で、いつかしないことが当たり前になってきたら、「している」ことを悪にさっと切り替えて、自分はさも「しなくていいと思っていた」ことになり、「しなければいけない風潮」を悪に切り替える。厄介なのは、たぶんそれは人で決まっているから、最初に「まだしようと言っていた人」が悪になるのではなく、おそらく「攻撃していいと決まった人」が悪になるということ。そういう対象がたまたまいなければ、文科省とか保護者とか他校とか、悪い人はいっぱい作れるわけだ。

ああ、生きるということはかくも面倒だ。

マスクひとつとっても、結局、周りがどう思うか、みんながどう思うかということに流されているだけなのに、「個人の判断」とか言い出しているのも嫌な正義感。

きっとみんな個人の判断を尊重している素晴らしい人たちだって自分を信じているんだろうなと思う。

まあ、自分が碌でもないというのは真実なんだから、それと周りを比べても仕方ないけれど。