ニュースを見ていたら、保育園に入れない問題は、さらに学童に入れない問題に移っているらしくて、大変だなあと思う。
他人事のような発言になっているのは、たぶん、うちが子育ての力を入れている自治体にいて、とりあえず保育園も学童も問題なく進んでいるからで、実際入れなくなったら大変なことになるんだろうなと思う。
とはいえ、保育園に入れないというのと、学童に入れないというのはだいぶレベルが違うような気がする。
もちろん、小学校1年生の娘を持つ自分からすると、小学校1年生で学童に拒否されたら死活問題。
だいたい帰りも基本的に早いから、保育園からあがったばかりの娘が家で長時間留守番とかできるかとか考えると途方に暮れてしまう。
でも、実際2年生が間近になってみると、結構一人で留守番ができるようになってきて、今度はバスでスイミングクラブに通おうか、なんて話も出てくる。つまり、保育園から上がった直後はかなり心配になってしまうけれど、1年経っていくうちに大丈夫かな…なんて感覚に変わりつつある。
だから、2年生、3年生と進んでいけば、一人で留守番なんていうのはそんなにたいした問題じゃないんじゃないのか、なんて昭和世代の自分は思ってしまう。
僕らのころは鍵っ子なんて言って、一人で留守番は当たり前だった。
とはいえ、これはいくつかの前提があって、まずは「近所」が成立していた。友達とは平気で行き来して遊んでいたし、そこにそれぞれの親の許可なんて必要なかった。そもそも、同じ年の子どもがいない「近所」のおじさんおばさんも知っていたし、つまり、その近所で遊んでいるかぎり、そんなに危険なことなんてなかった。
今や、きっとそんな関わりなんてないだろうし、そういう密なコミュニケーションなんて望まないだろうと思う。昔はそうだったというだけで、親が近所と密なコミュニケーションをとるなんていうのは誰ものぞまないし、ぞっとする。
そうやって地域が崩壊してしまえば、そりゃ、学童とか行政の仕組みを頼らざるを得なくなる。まあ、崩壊というと、地域や近所にノスタルジーを感じる表現になるから、そうではなくて、自分らしく生きるということの完成の果てに、ということなんだろうけど。
地域とか近所とか社会とか共同体とかっていうのは、面倒でウザい。
とはいえ、自分は自分らしく生きたいから、仕事も趣味も遊びも必要。変な話、現代の価値観において、趣味や息抜きのために子どもを預けるとしても、考え方としてはアリのはず。制度としてはまずいけどね。金銭的に優遇してるから。でも、自分らしく生きるためにたまには子どもがいなくなるのも、きっと感性としては許容できる人が大半。
となってくると、頼るべきものは行政とその仕組みしかない。ボランティア的に誰かと助け合うこともなく、かといって自分の人生を子育てに組み込むわけにもいかない。
結論は決まっていて、そういう制度を作れ、充実させろってことになる。
小学校高学年に学童が必要かどうかって議論はこういうところにあるんだと思う。
地域に、近所の枠組みがなくなってしまえば、当たり前だけれど、どこかが引き受けてくれないと困る。そうでないと、本当に単純に子どもがひとりで生きないといけない。でも、実際そうはいかなくて、たぶん、友達とか近所とかがあってなんとかなるから、その部分をどの程度許容してるかによって考えが変わる。
あとは習い事的な余裕もあるかも。自分たちでそういう場所を子どもに与えている家庭は学童的なものへのこだわりはないけれど、そうでないとなるとその居場所は必要になる。
いろんな考えがあるかもしれないけれど、きっと、現代は後戻りして地域や近所を再生したり、あるいは新たなつながりを求めるべくボランティアの時代にもなったりしないだろうから、必ず、こういう行政の制度が必要になっていくんだと思う。
これは仕方がないことだ。
自分自身は、新たなつながりとしてのボランティアを選択して、もう少し人とのつながりがある場所を探してみたいと思ったり。
少々考える今日このごろ。