教育と厳しさ

先日、イチローさんが旭川東高校を訪れたというニュースがあった。イチローさんの話は本当に勉強になって、今までも様々なことを参考にしてきた。

で、ちょっとショックだったのが、

「指導者、厳しくできないって。時代がそうなっちゃってて。厳しくできないと何が起こるかっていうと自由にできちゃうからね。なかなか自分に厳しくできないでしょ。今、自分を甘やかすことはいくらでもできちゃうよね。でもそうなってほしくない。いずれ苦しむ日が来るから、大人になって社会に出てから。できるだけ自分を律して厳しくする。(部員同士)仲良しだから、『ホントはこれ言いたいけどやめとこうかな』ってあるでしょ。でも信頼関係が築けてたらできるでしょ、『お前それ違うだろ』って。言わなきゃいけないことは、1年から2年に言ったっていいよ。『先輩これは違うんじゃないか』。そういう関係が築けたら、チームや組織は絶対強くなれますよ。それを遠慮してみんなとうまく仲良くやるでは、いずれ壁が来ると思う。それがこの2日間で感じたこと」

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というところ。

まあね。

厳しくできないというのは、もうとっくに気付いていて、スポーツの指導としても、学校の先生としても、厳しくできないことは察していたので、別にイチローさんに教えていただいたわけではないんだけれど、イチローさんからこういうコメントが出てくるということは、もはやこれが常識となったんだなと。

「強くなるために」「成長するために」とか、そういう言葉もつかないぐらい当たり前になったということ。

本当に面倒くさいんですが、変にとられると炎上案件なのでちゃんと書いておきますが、厳しい指導への憧れとか信仰とかノスタルジーなんてない。現場は本当に厳しくて、こういう仕事を生業としていく以上、リスクは排除するしかなくて、現場レベルでは「厳しい指導」なんてやりたいなんて思わない。怒られちゃうかもしれないけど、どこかから「厳しい指導」を求めるような、言い換えるなら容認するような、リクエストなんて平気で出てくる。でも、そんなの信じて、指導を徹底したりしたら、後でハシゴを外されて、厳しい指導に対する批判が出てくるなんて当たり前なので、絶対にしないし、なんならやってるふりをして、指導なんてしない。

今の時代、現場はそんなもの。

だから、イチローさんの言葉によって「気付いた」とか言葉に「反論する」とか、そんなつもりはまったくない。(くどい。)

「ショック」というのは、一番それが許容されてきたスポーツの、その中でも厳しい指導の権化のような高校野球で、しかも、それが選手に向かって、だから「自分たちでやろうね」というところまで、時代は進んだんだ…というようなこと。

まあ、とっくに自分の中では、「教育」や「指導」については、何かをなそうという気はなくなっていて、つまり、「収入を得る」「仕事」となっていて、何かこういうところに連れて行きたいみたいなことはなくなった。

もともと、自分の「こういうところ」っていうのは、「自立」であって、「自分で学べる生徒」で、「学び続ける生徒」で、だから「学び方を教える」…というようなところを折り合いをつけてやってきたわけだけど、そこには最後に「…生徒を育てる」とか「…を教える」というようなものがついていて、今や、その最後の部分に、「生徒がそれを望むなら」という注釈をつけてきているので、そういう意味のショックではない。

もっというなら、自分が先行してそういていると思っていたら、実は世の中それが当たり前だった、みたいなショックなので、なんなら「どれだけうぬぼれてるんだ」みたいな話ではある。

でも、自分としては、世の中がそうだとするなら、もっともっと戒めてもっともっと教育や指導から遠ざかる必要がある。

これは、ある意味で恐ろしい話で、特に公的なものがどんどんこうなってくるということ。つまり、親が求めたところで、そんなものは一切ない。

あるとするなら、それはどこか別の場所で与えなければいけない。それだって、この常識の範疇だろうから、みんなと同じように胡座をかいていたら、何もやってこない。

つまり、親が自分の子どもを、「自ら学ぶ子ども」にした上で、なんらかの教育機関、塾であるとか習い事であるとかに送り出すことを意味する。

そこで学ぶんじゃなくて、学んでから塾に行く。

要するに、家庭が問われ、環境が問われる。

個人の時代がやってきて、格差の時代がやってきたんだなと実感する。