不適切にもほどがある~コンプライアンス

フジテレビの話の続き

世間はなかなかおさまらない。たぶん、ずっとおさまらないと思う。

いいか、悪いかといえば、悪いに決まってる。だいたい、どんな企業だって、どんな人間だって、悪いところはあるに決まっていて、今回の場合、具体的に被害者がいるわけだから、悪いに決まってる。

そもそも愚痴ってしまえば、どうやったら収めるつもりなのか。認めたらか。謝ったらか。それとも無実が証明されたらか。

最後のパターンだとすれば、絶対悪いことはあるはずだから、きっと許されることはないのだと思う。いまや、これは社会全体の流れ。

きっといつまでも許されない。

で、そんなことを書いていると先にすすまないので、今回はコンプライアンスの話。

みんなコンプライアンスがどうのこうのというけれど、それは「現在」の視点。「不適切にもほどがある」じゃないけれど、20、40年前は、そんなものないのだ。だって言葉がないんだから。

言葉がないということは、概念がないということ。

煙草は職場で平気で吸っていたし、学校で体罰だってまかり通っていた。まあ、体罰の場合は「体罰」っていう言葉は存在していたし、なんなら教育基本法で体罰は明確にだめって規定されていたけれど、そんなことでなく、美しいものですらあった。「スクールウォーズ」を見てみんな涙していたわけで、今ではその瞬間退職させられて、ネットで血祭りにあげられて、裁判で負けて、暴行罪で逮捕される可能性すらあるわけだけれど、あの時に関しては、みんながその体罰に感動していたわけだ。

まして、言葉がない、ということは、認識すらしていない可能性が高い。

勘違いしてはいけないのは、だから問題にするな、というのではない。現在の視点から見て、「昔は問題だった」「ありえない」と語ることは重要で、だからこそ先にすすめる。

認識がなかったから「問題がない」ということもない。被害者にとって辛かったとするなら、認識されていなかったとしても問題であることは間違いない。過去においてどんなに認識されない問題であっても、見過ごされた問題が今、言葉を与えられ問題となることが間違っているわけではない。

僕が書きたいのはそういうことではない。

その時の社会、つまり、多くの人たちが認識できなかったことを忘れてはいけないということ。僕らは常に社会に影響されながら考え方をあらためている。でも、いつの間にか僕らは昔からずっと、自分が正しい考え方をしてきたという前提に立ってしまう。

今と5年前は違うし、10年前、20年前は違う。

接待文化なんて、名前がついたのかもしれないけれど、そもそもそんなことを言い出したら、「接待」というものがかなりあやしい。でも、確かにそういうのが当たり前の時代はあったし、若手が率先して飲み会に行く時代もあった。それが当たり前でないどころか「悪」となった現代からすれば、批判するのは簡単だけれど、その時代を生きていた人はみな、ある種「悪」の常識を共有していたわけだ。

昔を懐かしんでなどいない。悪なのだから。

ただ書きたいのは、みんな自分の常識がアップデートされて、昔に悪の常識を持っていたことを忘れていること。

今、ありえなくても、昔はありえたことを無視して議論してはいけない。

僕は今でいう「イケてない」グループだったから、合コンも縁がなかったけれど、イケてる人たちは合コンをして「王様ゲーム」があったりして、そういう時代を生きてきている。それを今から、「接待」だ、「上納」だ、「強要」だ、と言えば、確かにそうなのかもしれないけれど、縁のない僕も含めて、そういうことを普通に許容してきたことは間違いない。

くどいけれど、もう一度書く。だから今批判するなということじゃないし、許容されるべきだと言っているのではない。自分がそれを許容してきたことを忘れずに、自分自身を反省するべきだと言いたい。それはつまり、フジテレビ的なものをスケープゴートにして、「叩いている以上、自分は善だ」というように、誰かを叩いて自分を安全地帯におくことをやめよう、と言いたいだけだ。

今回のもともとの問題は、現代の話だから、起こった事案とフジテレビの対応は、当然、現代の視点で語られるべき。

でも、社風とか企業風土とかを語る時に、20年前、30年前の話を出して、現代の視点で語ってはいけない。その時にはそれを見過ごしていた自分自身の視点にも刃を向けるべきなんじゃないかと思う。

他のマスコミについていうなら、きっといつ自分に刃が向いても不思議ではない。今は「ブーメラン」なんて言葉もあるように、だからこそ、そうなる。

広告出稿しないで安全地帯にいるスポンサーたちも、何十年も遡っていけば「接待」なかったんですか?という話にならないはずがない。

そんな話。

決めつけ刑事とマッチポンプ

今日はあんまりだけど、フジテレビの話。

前代未聞のCMがACになる事態が続いて、世間的には悪いダメな企業ということになったようだ。じゃあ、実際何があったのかというと今となっては、いろんな人がいろんなことをきっと言うのだろう。

ガバナンスとか、経営体制とか、人権とか。

まあ、別にそんなことはそれぞれの人がそれぞれに考えればいいわけだから、そんなことに文句を言うつもりはないのだけれど、びっくりしたのは、文春が極めて重要な部分をさらった訂正したこと。

訂正はされたけれど、予想通り、僕が本来そうなるべきと思うほど、謝罪もなければ、擁護もなければ、風向きが変わることもなさそうだ。

まあ、実際に、本当に、何があったか、事実がどうなのかは今の時点でわかるわけもないし、第三者委員会の調査を待ちましょう、なんていう極めて冷静な意見があふれるのもわからなくはない。

しかし、それが本当にそうなら、「本当に何があったか今の時点ではわかるはずもない」状況で、ああした会見が行われ、スポンサーがCMをとめたということに他ならない。つまり、事実はどうあれ、噂が流れたのはそれなりの理由があるからで、リスク管理として、それは当然で、事実がなかったとしても、事実があったら大変なことだから、事実があるという前提で追及するのは当然のことだということなのだろう。

おそろしい話だ。

もちろん、結果が出なければわからないけれど、真っ黒の可能性もあるけれど、真っ白の可能性だってあるわけで、それでもリスク管理や噂がある以上追及するのは当然なのだろう。

こんなことを書くと、きっと、「いや、フジテレビには今回の件に限らず悪い噂がある」とか「今回の会見の流れや対応を見ても問題があることは明らかで真っ白なんてことはない」とか反論が出てくることも予想できる。

でも、フジテレビが白だといいたいわけではなく、なぜ問題のある企業だということに決めつけられたかといえば、フジテレビの社員が今回の問題を具体的に引き起こしたと報道されたからに他ならない。実際、それまではCMも流れていたわけだし、記者会見を求められたのも、その事実があったからだ。

ところが、その根幹が訂正された。

もし、そこがなければ、とりあえず現在のような窮地に追い込まれてはいないかもしれない。

僕らはその報道を見て、「きっと何かやましいことがあり、きっと何か隠蔽しており、きっと嘘をついているにちがいない」と考えた。つまり「フジテレビの社員が具体的に関わりそれを隠蔽した企業」と決めつけたわけだ。

今、その根幹が崩れても、引っ込みがつかないから、「いや、まだグレーだ」とか「黒なのだ」とか、一番冷静でも「第三者委員会の結論をまとう」なんて言う。

つまり「現状は仕方ないのだ。まだ白でないのだから」ということ。

そこを否定するつもりはない。事実はわからない。

でも、今の状況は明らかに文春の報道きっかけで、その根幹が崩れてるのに、何も変わらないなんておかしいのではないか。

きっとそれでも言われる。「フジテレビはその他でもいろいろ問題がある企業なのだ」と。

でも僕は思う。その問題のある企業というイメージは、今回の文春の訂正した記事によってはじめて確定した、決めつけられたことなのではないか。

記事が間違っていたのに、問題がある企業だから仕方ない…。でもその「問題のある企業」という決めつけは、その間違った記事によって確定した…。

マッチポンプだ。

繰り返すけれど、フジテレビに問題がないとは思わない。でも、そんなことを言うなら、セクシー田中さん問題の日本テレビは許されるのだろうか。他の企業にはガバナンスの問題はないのだろうか。

でも、フジテレビは今回の流れで叩いていい、叩いて体質を変える必要があると決まった。きっかけは訂正された記事で。で、記事は間違っていても、問題があるから仕方ない。

問題をただすこと、経営体制を変えることは必要かもしれない。でも、それがこんな極端なことを生み、そして、間違いがあったにも関わらず、風向きがほとんど変わらなかったり、記者会見で決めつけ発言をした当人たちが反省せず、開き直って「いや、それでも問題があることに変わりない」とか言っていて、それが世間に受けいれられるとすれば、やりきれない気がする。

文春は、立場として「今回のことは社員Aがセッティングしたわけではないけれど一連の問題だから」ということらしいので、謝罪もしないというのはわからなくもない。だって、フジテレビを黒だと決めて戦うわけだから。

でも、その文春報道を鵜呑みにして、黒だとか問題企業だとか決めつけた記者や僕らは反省が必要だと思う。

まあ、文春はもっと早く訂正できるはずなのに、わざわざこのタイミングまでひっぱって炎上させて、しれっとこっそりと訂正するなんて戦い方としては卑怯すぎるけれど。

というわけでおそろしい時代になったものだ。決めつけ刑事なんてACの広告を流しながら、みんなでレッテルを貼ってそのレッテルで評価するのだから。そしてみんなで憂さ晴らしのように攻撃するのだから。

踊る大捜査線の話

フジテレビで、映画が公開される関係で、懐かしの「踊る大捜査線」シリーズをやっていた。懐かしくて、結構観てしまったわけだけれど、まあ、内容がすごい。コミック的な、というか、コミカルに描いていくのが「踊る」の真骨頂なわけだけれど、今見ると驚くようなことばかり。

 

最近の「コンプライアンス」ということだと、まず青島くんが、至るところでくわえタバコをしていることがびっくり。車の中、警察署の中、もちろん町中でも。

で、怪我した青島くんを運ぶ室井さんが車を運転して、しばらくすると、シートベルトをするシーンがある。命がかかっているわけだから、シートベルトをしないで走らせて、大丈夫とわかってから落ち着いてシートベルトをする…。

そのぐらいいいと思うんだけど、今やそんなこともきっと時代は許さない。

問題は実はそんなところではなくて、もっと本質的なところ。

この作品の名台詞に「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」というのがあるんだけれど、現場で苦しんでいる刑事たちの手法を、キャリアと呼ばれる人たちがああだこうだ文句をつけて、正しいことができない、つまり、犯人を取り逃がしたり、さらなる被害を生んだり…というのがこの作品の肝。

ぼくらはノンキャリアの青島くんとかすみれさんとか和久さんとかに感情移入して、うるさいこと言ってくる上司やキャリアの人たちをやっつけてほしいと思う。現場で正しいことをやっていればいいじゃないか、組織とか、規律とか、そういうことじゃなくて、正しいことをすることが大事だよね…とそんな気持ちになるわけ。

実際、これが流行ったときは、就活で、みんながこういう理想を語り、尊敬する人に「青島刑事」をあげる人が続出し、そういった答えをした人を全部不採用にした…なんて伝説があるぐらい社会現象で、みんながこれを支持していた。

 

で、本題。今から、見直してみると、まあひどい。青島くんたちのやってることって危ないことばっかり。それこそ取り調べの手法なんて、アウトでしょって感じだし、その捜査の手法も、コメディだから仕方ないとはいえ、だめなことばっかり。

そうなのだ。令和の感覚で見直してみると、止めているキャリア官僚の方がよっぽどまっとうだったりするシーンさえある。もちろん、差別主義ではなから協力する気がないという設定当たりは現代でもキャリアにあるなら認められないけれど、コンプライアンスに注意してしまう現代だと、キャリアと一緒に青島君をとめたくなるシーンにあふれてしまう。

 

おそろしい。時代は変わったのだ。

 

しかし、それ以上に恐ろしいのは、そうやって見直してみてはじめて変わった自分に気付くのだ。青島くんのコンプライアンスが気になる自分も、かつては無条件に青島君を「正しい」と応援していて、決して気になったりしないし、止めたくなったりしなかったのだ。

にも関わらず、僕らは昔から、自分はコンプライアンスを遵守してきた、という幻想の中にいる。変わったはずなのに、昔から変わらず今のままだったと信じる自分がいるわけだ。

そういう認識の中で他人の、過去の罪を断罪できたりする。

それこそが最も恐ろしい話だ。

あの時代、みんながあれを許容していた。

いや、みんながあれを「正しい」ことと認識していた。

それが間違っているのではない。私たちは時代を経て変わったのであり、ずっとそうだったのではない。

そういう反省と認識を僕らは持つべきだと思う。チャンスがあったら見てほしい。

オリンピックの辞退と代償

また世間では、「代償」の話で持ちきりだ。

オリンピックの体操選手が喫煙と飲酒で辞退せざるを得なくなった。で、それは厳しすぎるとか、たかだかタバコでとか言うと、今度はその人が叩かれる。おそろしい話だ。

そもそも高校野球では…なんていう言説も出てくるけれど、いつの間に、人々は高校野球の、高野連の、あの連帯責任的なものを好むようになったのだろう。自分が物心ついたころから、ある程度見識を持った人たちは、あの高野連的な感じを馬鹿にして、やり玉にあげていると思っていたのだが、いつの間にか世の中は、あの感じがスタンダードになったみたいだ。

もちろん、今回の場合は連帯責任ではなく、自己責任。まあ、だからいいっちゃいいのかもしれないけれど、それにしても今回のことを正当化する例に使うのが、高校野球とか高体連とかって、自分の感覚では信じられない。厳しすぎてやり玉にあげられてきたものの象徴で、せめて使うなら野球以外の競技をあげたくなるのが、人情というものだ。高校野球と高体連を例にあげるなら、「そういう人」って思われるような気がしてしまうから。

にもかかわらず、平気で高校野球と高体連が持ち出されるのは、時代が変わったからだろうか。いつの間に人々はそういう厳格な、厳しい処罰感情をスタンダードにしたんだろう。

それとも、「論破」的なものを好む時代の中で、とにかく今の、自分の考えさえ正当化できれば、何を例に持ち出そうか関係ないのだろうか。

まあいいや。

どっちにしたところで、自分の感覚とはだいぶ時代や社会が離れていったことは確かだから。

いけないことはいけない。自覚にかけた行動。こんなことは議論の余地がない。

許されるのか?許すのか?見て見ぬふりはできないし、何らかのペナルティは当然必要。こんなことも議論の余地はない。

余談だが、ナショナルトレーニングセンターで…って話だと、結構ペナルティはそもそもあるはずで、施設の出入りができなくなったり、使用させてもらえなくなったりするはず。ひどいと、その競技が締め出されたりするはず。となると、対象者が怒られないはずがない。

というわけで、議論したい人は、ペナルティとしてオリンピックを辞退させる必要があるのかって提起するんだけど、許さない人は「許すのか」って話にしてくる。

つまり、代償の話。

どんなに、見合うペナルティを…って話しても、「許すのか」とすり替えられてしまうと、どうにもならない。それこそ逆に「許さないのか!」と問い詰めたくなるぐらい。でも、そんなことをしたら、同じレベルになるからしない。

ただ、間違いなく憂うのは、ひたすら世の中が不寛容になってきていること。人は必ず失敗をし、間違いを犯す。だから、たたいているその人も、その人の子どもも、いつか必ずその中に巻き込まれる。

残念なことに、だからいつか自分にその刃が向いてくるよ、という警告はきっと意味がない。おそらく、その間違いを犯した時でさえ、その不寛容な人たちは、他者にその刃を向け、システムや管理や、そういう原因に向けて刃を向ける。

なので、私が憂いているのは、いつでも寛容であろうとする人が、きっとその刃を受けとめるんだろうな、ということ。

たぶんどうすることもできない世の中のムードを感じる。

というわけで、ちょっと暗くなってしまう今日このごろ。

反省してもらって、みんなが許して、オリンピックで活躍してくれたら最高なんだろうけど、そうはいきそうにない。まあ、現実的にこんな日程、スケジュール感で、そこまではいかないから無理なんだけど、「辞退」っていう、いかにも日本的な解決に追い込んでおきながら、追い打ちのように叩くってどうなんだろうとは思う。

叩いている人は、どんなに自分から辞退したっていっても、責任感が足りないとか、悪いことには違いないとか、きっと言い続けるわけで、どこまでも不毛だ。

ため息。

日本の個人主義

日本の個人主義、なんてたいそうなタイトルをつけたけれど、ここのところ、現代文の授業とか、小論文とかをやりながら、感じたことを覚え書きとして、まとめる程度の記事。

さて、教員の職場がブラックで、改善が必要だなんて話が入ってくるのは、とてもいい話で、とても個人主義なんていう言葉とは関係がない議論だとは思うけれど、とはいえ、「やりがい」とか「感謝」とか「尊敬」とかいう言葉ではとてもやっていけない時代が来たと考えると、やはり徐々にすべてのものがサービスとして、対価を求められ、一方で、教員も個人としての人生を優先する、いや、優先すべき、という時代がやってきたのではないかと思う。

こんなことを書いたところで、日本のムラ的社会に対する忌避というか嫌悪というか、そんなものはずいぶん前からあって、それがこうして個人の時代に来るわけだから、悪いことなんてあるわけがない。

でも、こういう議論をしていくと、なんだか日本ばかりがとてつもなく変なことをやっているのではないかっていう気になる。だって、世界標準であるなら、他国と同じようなことをすればいいわけだし。

というわけで、何が日本オリジナルなんだろう、なんて考えたわけです。

たとえば、部活動の話。

私は理解されにくいと思うけれど、部活動は重要と考えつつ、だからこそ地域移行すべき派。要するに、部活動が担っている内容は重要なので大事にすべきだけれど、それを実行するのは、学校や教員でなく、地域や保護者でいいんじゃない?っていう派。

たぶん理解されないし、同じ考えの人には滅多に会わない。

部活動っていうのはすごい仕組みで、活動するための場所と時間が準備されて、しかもそこにほとんどお金をかけることなく、維持されている。

まあ、だからこそ、やりがい搾取で教員がただ働きさせられるわけだから、論外なんだけれど、地域移行して、しっかり対価を払わせようとすると、当然、そのお金はどっから出るんだってことになる。

スイミングクラブはだいたい週1回1時間で1万円はしないくらい月額払う。ピアノだったらもっと高いだろう。毎日になったらその七倍ではもちろんないけれど、でも額があがることは間違いない。

というわけで、普通の人にとってみれば地域移行で、サービスに相当する対価を払い始めると部活動のように毎日やるわけにはいかない。毎日やるのがいいかという議論はおいておいて、相当にお金をかけるか、回数を減らすか、どちらかしかない。

仮に平日はなしにして土日中心にしたとして、たとえばよく聞くような専門的なコーチを使うとしたらどうなるか。

もし、これで生計をこの人が立てるとすると、毎週2日の実働で、朝から晩まで時間ごとにいろいろな年代を見るとしたところで、ここに集まるお金で月給が確保されないと専門的な生計は立てられない。

つまり、他に仕事をかけもつことになる。となると、そもそもこれが「専門的なコーチ」といえるかは怪しい。

そうじゃないとすると、やはりここには教員に求めたボランティア要素が多分に必要になる。ていうか、そういう人じゃないとやれない。

もしくは、僕らが週2日の労働に対して月給的なペイを払うかしかない。そんなお金はきっと出さない。

つまり、地域移行していくと、はっきりわかるのは、ただ働きに使える教員がいかにありがたかったかというだけで、逆に言えば、結局はただ働きしてくれるボランティアがどこかにいないかしら…と探しだすことはすぐにわかる。

結局、ぼくらはそういうボランティアがほしい。

この議論、逆から見ると、「ボランティアが減った」ということになる。教員はボランティアは嫌だ、と大声で言えるようになった。そういう人が増えたからだ。そして、そういう人が増えたから教員のなり手は減った。(誤解しないでほしいが、嘆いてもいないし、懐かしんでもいない。ただの事実。)そして、保護者もそういうことに理解してくれる人がどんどん多くなっていることも事実。

だって、個人主義の時代なんだもの。

というわけで、ここが日本の特徴だと思う。

つまり、もともとムラ的社会の中で、社会の中の関係とか役割で動いてきた僕らは、個人主義の対義語に社会とか関係をおいて、個人の反対にあるものを「悪」ととらえるようになった。ボランティアでさえ、相手ではなく、自己実現の言葉のようにぼくらは使いかねない。

でも、よく考えてみると、人間の生活は一人で成り立つものではない。たとえば、救急車がただでこなくなったら、病気の人を誰かが運ばないといけない。子育てだってそうで、育休みんながとって町中に子どもがあふれたら、それは目にした人みんなが許容してあげないといけない。

つまり、個人主義が進むところ、その隙間を埋めるのはボランティアで、それなしに社会は成り立たない。小論文的にいうと、小さい政府になればなるほど、ボランティアと協力が欠かせないし、大きな政府というのは、個人が本来社会的義務としてやらなければいけないことを、誰かに(この場合は政府や行政に)代行してもらう仕組み。

だから、日本では保育園が好まれる。ぼくらは個人の時間が大事で、子育てを代行してほしいから。本当は育休という選択肢もあるけれど、日本人は好まない。個人の時間がとられるからだ。

欧米が育休中心で保育園が少ないのと比べると感覚的にわかるかもしれない。

だから、もともと個人を尊重していた欧米は、隙間を埋めるボランティアの重要性はしっかりわかっているはず。だからおそらく部活動が地域に移行する…なんてことがもともとなんだから起こるわけないけれど…おこったとしても、みんなでボランティア的に支えるだろうということは想像できる。

でも、きっと日本では、ボランティアは個人の時間を搾取する悪の象徴だから、ボランティアを自分の人生の生きがいとする少数派以外は、おそらく、きちんとした指導者に相応のペイを払う、という思想になるに違いない。

となると、最初の話に戻るけれど、スポーツは、お金がある人がはじめてできるものになるんだろうなと思う。

個人主義だからこそ、ボランティア的な社会がかる~くできている他国と、もともと協力的だからこそ、徹底した個人主義に進んで、自己犠牲的なことを嫌う日本。

日本ではボランティアが偽善とか欺瞞とかでとらえられることも多いけれど、きっとこういうところに根っこがあるのかもしれない。まあ、宗教的な要因も大きいだろうけれど。

全中が縮小される話。

 突然舞い込んできた、全中から水泳競技など9競技がはずされた縮小されるという話。論理的に考えればそうなるよね、とは思うものの、まさか一気にこんな感じの決着をするとは思わなかった。

 あんまり知らない人のために、水泳競技の実情を。水泳選手は、スイミングクラブで練習している。で、学校の水泳部はどんどんつぶれている。すでに。

 僕らが中学生の頃は、スイミングに入っていても、学校に水泳部があって両方で練習していた。でも、いつのころからか、学校は部活動が負担になって、なくなっても活動ができる水泳部は真っ先に目をつけられてなくなってしまった。だから、スイミングで練習をする。だけれど、全中というのは学校のくくりの大会だから、水泳部がなくても学校名で出なければいけない。だから、その予選から、水泳部のない学校の先生がかりだされて引率をし、大会の役員をしていく。こんないびつな形になった。

 で、去年から地域クラブに移行するということで、スイミングクラブ名で、スイミングクラブ所属のまま、学校名で大会に出ることができるようになった。ということは、学校の先生が引率しなくていいじゃん…ということなんだけれど、多くのスイミングは今まで引率してもらっていたものを、自分たちが引率して自分たちが役員をやるのは大変だから、初年度ということもあって、様子見というか、ほとんど今まで通り学校の先生が引率するしかなかった。

 今年がその二年目。少しはスイミングから出る選手も出始めたな、と思った矢先のこのニュース。

 なんで、こんな手になるかというと、水泳にはジュニアオリンピックという大事な全国大会がある。スイミングは、これを目指して練習する。小学生、中学生、高校生が年齢区分で戦っている。で、横に、全中とインターハイがある。連盟としても大きな全国大会が中高ともに連続することになっているのは、改善の余地があると考えていたはずで、実際、八月の半ばに同じ日程で全中とインターハイ、終わったらすぐ、ジュニアオリンピックという流れ。

 だから論理的に考えれば、「いらなくね?」ということなんだけれど、まさか全中なくすなんて思わなかったからびっくりした。だって、他競技もあるし。そうだよね。水泳だけやめればいいんだもんね、と冷静に考えればわかるお話。

 

 で、そりゃ地域移行の中で当然の話なんだけど、巷のネットの書き込みみているとよくわかっていないことがいくつか書き込まれているので、そのあたりをいくつか補足しとく。

 

  1. 全国大会がなくなった先生が楽になるという話。これは、あくまでも関係のない善意の先生のお話。これは大事で楽をしてもらわなければいけない。でも、これでもっときつくなるのが水泳に関わってしまっている学校の先生。巷では「連盟」とか「クラブチーム」とか言われているけれど、どこの都道府県の水泳連盟も実態はボランティア。これ、日本水泳連盟もまったく同じ。自分もそういう仕事をやっているけれど、お金なんてまったく出ない。会議の時にお金がちょっと出るけれど、交通費と比べたら赤字になってしまうような額だし、大会の手当も一日で2000円とかそういうレベル。だから、実は県の連盟なんて、結局はタダで働いてくれるボランティアでもっている。じゃあ、それは誰だっていうと、結局は水泳に関心のある「教員」ということになって、実際、大会には多くの教員がかりだされる。学校の大会と連盟の大会の大きな違いは、かりだされるのが、関係のない先生でなく、関係のある先生だっていうことぐらい。ついでに書いておくと、水泳連盟でお金がちゃんと出るのは事務局の人ぐらいで、偉い人も含めてお金なんか出ない。だからかどうかわからないけれど、いたるところでお金にまつわるよくない話は結構耳にする。戻ると、スイミングクラブの大会がある限り、水泳に関係する先生は楽になることはなかったりする。結局、世の中はただで働かせられる人で持っている。
  2. つまり、この問題は、大会であったり、そういうものがいかにお金をかけずに作られているかということによる。いいプールを借りるだけでも結構お金がかかって、働く人に正規のお金を払うと、とんでもない参加費が必要になる。じゃあ、それを受益者負担でやれるかというと、残念ながらそれはみんながいやだと言い出すだろうと予測が立つ。
  3. となると、設備ぐらい、つまり、プールぐらいただで使いたいよね…という話になるけれど、それは公的なものであるなら、箱物の赤字でたたかれる。だから、現代において、プールを作ろうとか修理しようとかいう話にはならないし、やっと作ったとしても、そこには市民や県民や国民がいて、「なんで大会なんてやるんだ!税金払っているおれらが使えないじゃないか!」なんていう声が結構な確率で届く。だから少しでも安くやらなくちゃいけないから、ボランティアに頼るしかない。

というわけで、この国のスポーツの未来は暗い。まあ、それはそれでしょうがない。考えてみれば、僕らが子どものころに空き地で野球やサッカーをやったような環境はすでになく、お金をはらってスポーツをする時代がやってきた。つまり、お金のない人はスポーツなんてやる環境にないのだ。だからこそ、教員がボランティアとして…という堂々巡りを続けていく。

 というわけで、全中から競泳がなくなるのは、普通の学校の先生にとっては大きな一歩だけれど、水泳に関わる先生には関係なく、ボランティアしつづけなければいけない環境は変わらず、水泳を続けるためには必ずスイミングクラブに入って、お金を払い続ける流れの中に進むしかない。

 まあ、そういう時代なんだろうなという話。

人を信じるということ

世間は大谷くんの話題で持ちきりだ。

 

人間はいいときばかりでなく、必ず悪いときもくるというような、運命論さえ感じてしまう。人生を作ってきた大谷くんでさえこうなるとするなら、悪いときはじっと耐えるしかないし、それを乗り越えて学ぶことが人間には必要なんだ、という学びさえ起こってしまうかもしれない。

 

それはさておき、人を信じることは難しい。そもそも信じるというのは、何なのか。人を信じるといったとき、人の何を信じているのか。過去か、実績か、言葉か、行動か、思いか、性格か。仮にひとつに決めたとしても、「じゃあ性格って何?」っていう問題につながっていってしまう。

きっと、大谷くんだけでなく、なんだかわからない僕らだって、何かを信じて発言している。

 

というより、むしろその前提で全てが始まっている。

不倫をした人だって、たたかれる人とたたかれない人がいる。普通に復活する人もいれば、いつまでもたたかれ続ける人もいる。そういうものを一言で片付ければ、「人」。いろんな人のケースで、いろんな人が、いろんな観点で語るが、何を言ったところで、それは「人」。

 

炎上するような有名人に限らず、僕らは結局「人」で見られている。

僕がやっているような仕事でいうと、「いい先生」と「そうでない先生」とかそういうものはあらゆる場面で結局は決まっていてそれでみられていく。

たとえば、クラスで問題が起こったときに「あの人のクラスだから」と言われることもあるけれど、「いい先生」のクラスで何か問題が起こったとしても「あの先生でもそうなるんだから、よほど生徒が悪いんだよ」なんてなったりする。

要するに、先に評価が決まっていて、そこで全ての事象が説明される。

そんなの仕方ない。だって、同じ事を人や方法を変えてふたつの結果を比べる…なんてことはできないわけだから、どうにかなったのか、どうすることもできなかったのかなんて誰にもわからない。

それが「信じる」ということ。

まあ、すべてはそんなもの。

大谷くんにしても、通訳にしても、コメンテーターにしても、僕らはどこかで「人」の評価をしていて、その「人」が何を言っているかによって、考え方が変わる。発言を「信じる」前提には、「人」に対する信仰がある。これは必ずしもポジテイゥヴなものではなく、ネガティヴな意味においても。

つまり、ある程度のポジティヴな信頼がある場合、発言は好意的に受け取られ、ネガティヴな評価が定まっているとするなら、「そうはいっているけれど…」と説明を信じてもらえなくなっていく。

せめて、僕らはそういうあまり根拠のない信仰の中にいるということを自覚したいものだとは思う。そういう曖昧な中で、同じことが起こっても「人」が誰かでどんな評価がされていくわけだ。

で、結局、僕らはそういう曖昧な信仰から逃げることはできない。そういう枠組みは必ず存在していて、それをなくすことは不可能だ。

逆に言えば、評価を避けることは思考を止めることともイコールで、だから別に自覚さえしていれば、多少なりとも偏見がまじるような予測や意見がいけないわけではない。

ただ、それは本来、ただの推測で、憶測で、ちゃんと知らない「人」を勝手に評価して、その枠組みでなんとなく考えるようなものだ。

そう。

いけない訳でもなく、飲みながら、家族や友人と言いたいことを言い合う、その程度のことだと思う。

問題なのは、飲み屋でおっちゃんがつぶやいたことが世界に広まったりはしないし、家族と家の中で子どもに嫌な顔されるような話が、誰かに引用されたりはしない。

でも、今はそうじゃなくて、SNSでつぶやいたことが記事に引用されたり、ヤフーコメントが読まれて、それが常識という枠組みをつくっていたりする。

本当に怖いことだと思う。

でも、ぼくらはもうそういう中にいる。僕ら自身が、会ったこともなければ、つきあったこともない、友達でもない人を、平気で決めつけて発言して、その発言がまた誰かの常識を作っていく。

まあ、そんなことを思う。

おそらく、だけれども、人間は普段の振る舞いと常に何もかもが結びついているわけではなく、ある部分ではとてもいい人であっても、裏でどんなことが起こっているかはわからないこともある。「ことも」であって、そうでないケースも当然あるだろうが、人間はそんなものだ。すごい悪人が、毎日悪人かといえば、突然善行をすることもあるだろうし、ある分野だけ、突然悪人になることもあるはずだ。

でも、僕らはよくわからない会ったこともない人の「人」を信じているから、理解できなかったりするんだと思う。

今回の話は、なんとなくだけれど、たぶん僕らが見えていた、彼らの関係は確かにそういう憧れるようなものとして存在し、彼もそういう振る舞いをしていたはずで、そういう意味でいえば僕らが見ていたものが間違っているわけではないんだと思う。

でも、きっと誰にも見えていないところで、当たり前だけれど、彼の行動や考えがあったりして、それはきっと彼らの素晴らしい関係とは切り離さないといけない。

だから、彼の発言が撤回されたことさえも、こうした文脈で見てはいけない。最初から大嘘だから撤回しなくちゃいけないのかもしれない。彼を「大嘘つき」として見ている人はきっとそうとしか見ないし、彼を「正直な人」として見ている人は「外部的なプレッシャー」や「政治」として見るんだと思う。そんな文脈がそもそもただ信じられているだけなのに。

どっちにしたって、僕らにわかるわけがない。僕らより専門的知識があるだろう専門家やコメンテーターだってわかるはずがない。まして、それを聞いた僕らの意見なんて本当はまったく意味がない。

そもそも、ただ信じているだけの話で、根拠や理由なんて曖昧なものだから。

実際には、当事者の大谷くんが一番「信じる」ことの難しさを痛感しているはず。そんな問題であるにも関わらず、外野の僕らは自分が「信じる」力がある前提で、好き勝手に展開していく。

信じることって難しい。