オリンピックの辞退と代償

また世間では、「代償」の話で持ちきりだ。

オリンピックの体操選手が喫煙と飲酒で辞退せざるを得なくなった。で、それは厳しすぎるとか、たかだかタバコでとか言うと、今度はその人が叩かれる。おそろしい話だ。

そもそも高校野球では…なんていう言説も出てくるけれど、いつの間に、人々は高校野球の、高野連の、あの連帯責任的なものを好むようになったのだろう。自分が物心ついたころから、ある程度見識を持った人たちは、あの高野連的な感じを馬鹿にして、やり玉にあげていると思っていたのだが、いつの間にか世の中は、あの感じがスタンダードになったみたいだ。

もちろん、今回の場合は連帯責任ではなく、自己責任。まあ、だからいいっちゃいいのかもしれないけれど、それにしても今回のことを正当化する例に使うのが、高校野球とか高体連とかって、自分の感覚では信じられない。厳しすぎてやり玉にあげられてきたものの象徴で、せめて使うなら野球以外の競技をあげたくなるのが、人情というものだ。高校野球と高体連を例にあげるなら、「そういう人」って思われるような気がしてしまうから。

にもかかわらず、平気で高校野球と高体連が持ち出されるのは、時代が変わったからだろうか。いつの間に人々はそういう厳格な、厳しい処罰感情をスタンダードにしたんだろう。

それとも、「論破」的なものを好む時代の中で、とにかく今の、自分の考えさえ正当化できれば、何を例に持ち出そうか関係ないのだろうか。

まあいいや。

どっちにしたところで、自分の感覚とはだいぶ時代や社会が離れていったことは確かだから。

いけないことはいけない。自覚にかけた行動。こんなことは議論の余地がない。

許されるのか?許すのか?見て見ぬふりはできないし、何らかのペナルティは当然必要。こんなことも議論の余地はない。

余談だが、ナショナルトレーニングセンターで…って話だと、結構ペナルティはそもそもあるはずで、施設の出入りができなくなったり、使用させてもらえなくなったりするはず。ひどいと、その競技が締め出されたりするはず。となると、対象者が怒られないはずがない。

というわけで、議論したい人は、ペナルティとしてオリンピックを辞退させる必要があるのかって提起するんだけど、許さない人は「許すのか」って話にしてくる。

つまり、代償の話。

どんなに、見合うペナルティを…って話しても、「許すのか」とすり替えられてしまうと、どうにもならない。それこそ逆に「許さないのか!」と問い詰めたくなるぐらい。でも、そんなことをしたら、同じレベルになるからしない。

ただ、間違いなく憂うのは、ひたすら世の中が不寛容になってきていること。人は必ず失敗をし、間違いを犯す。だから、たたいているその人も、その人の子どもも、いつか必ずその中に巻き込まれる。

残念なことに、だからいつか自分にその刃が向いてくるよ、という警告はきっと意味がない。おそらく、その間違いを犯した時でさえ、その不寛容な人たちは、他者にその刃を向け、システムや管理や、そういう原因に向けて刃を向ける。

なので、私が憂いているのは、いつでも寛容であろうとする人が、きっとその刃を受けとめるんだろうな、ということ。

たぶんどうすることもできない世の中のムードを感じる。

というわけで、ちょっと暗くなってしまう今日このごろ。

反省してもらって、みんなが許して、オリンピックで活躍してくれたら最高なんだろうけど、そうはいきそうにない。まあ、現実的にこんな日程、スケジュール感で、そこまではいかないから無理なんだけど、「辞退」っていう、いかにも日本的な解決に追い込んでおきながら、追い打ちのように叩くってどうなんだろうとは思う。

叩いている人は、どんなに自分から辞退したっていっても、責任感が足りないとか、悪いことには違いないとか、きっと言い続けるわけで、どこまでも不毛だ。

ため息。

日本の個人主義

日本の個人主義、なんてたいそうなタイトルをつけたけれど、ここのところ、現代文の授業とか、小論文とかをやりながら、感じたことを覚え書きとして、まとめる程度の記事。

さて、教員の職場がブラックで、改善が必要だなんて話が入ってくるのは、とてもいい話で、とても個人主義なんていう言葉とは関係がない議論だとは思うけれど、とはいえ、「やりがい」とか「感謝」とか「尊敬」とかいう言葉ではとてもやっていけない時代が来たと考えると、やはり徐々にすべてのものがサービスとして、対価を求められ、一方で、教員も個人としての人生を優先する、いや、優先すべき、という時代がやってきたのではないかと思う。

こんなことを書いたところで、日本のムラ的社会に対する忌避というか嫌悪というか、そんなものはずいぶん前からあって、それがこうして個人の時代に来るわけだから、悪いことなんてあるわけがない。

でも、こういう議論をしていくと、なんだか日本ばかりがとてつもなく変なことをやっているのではないかっていう気になる。だって、世界標準であるなら、他国と同じようなことをすればいいわけだし。

というわけで、何が日本オリジナルなんだろう、なんて考えたわけです。

たとえば、部活動の話。

私は理解されにくいと思うけれど、部活動は重要と考えつつ、だからこそ地域移行すべき派。要するに、部活動が担っている内容は重要なので大事にすべきだけれど、それを実行するのは、学校や教員でなく、地域や保護者でいいんじゃない?っていう派。

たぶん理解されないし、同じ考えの人には滅多に会わない。

部活動っていうのはすごい仕組みで、活動するための場所と時間が準備されて、しかもそこにほとんどお金をかけることなく、維持されている。

まあ、だからこそ、やりがい搾取で教員がただ働きさせられるわけだから、論外なんだけれど、地域移行して、しっかり対価を払わせようとすると、当然、そのお金はどっから出るんだってことになる。

スイミングクラブはだいたい週1回1時間で1万円はしないくらい月額払う。ピアノだったらもっと高いだろう。毎日になったらその七倍ではもちろんないけれど、でも額があがることは間違いない。

というわけで、普通の人にとってみれば地域移行で、サービスに相当する対価を払い始めると部活動のように毎日やるわけにはいかない。毎日やるのがいいかという議論はおいておいて、相当にお金をかけるか、回数を減らすか、どちらかしかない。

仮に平日はなしにして土日中心にしたとして、たとえばよく聞くような専門的なコーチを使うとしたらどうなるか。

もし、これで生計をこの人が立てるとすると、毎週2日の実働で、朝から晩まで時間ごとにいろいろな年代を見るとしたところで、ここに集まるお金で月給が確保されないと専門的な生計は立てられない。

つまり、他に仕事をかけもつことになる。となると、そもそもこれが「専門的なコーチ」といえるかは怪しい。

そうじゃないとすると、やはりここには教員に求めたボランティア要素が多分に必要になる。ていうか、そういう人じゃないとやれない。

もしくは、僕らが週2日の労働に対して月給的なペイを払うかしかない。そんなお金はきっと出さない。

つまり、地域移行していくと、はっきりわかるのは、ただ働きに使える教員がいかにありがたかったかというだけで、逆に言えば、結局はただ働きしてくれるボランティアがどこかにいないかしら…と探しだすことはすぐにわかる。

結局、ぼくらはそういうボランティアがほしい。

この議論、逆から見ると、「ボランティアが減った」ということになる。教員はボランティアは嫌だ、と大声で言えるようになった。そういう人が増えたからだ。そして、そういう人が増えたから教員のなり手は減った。(誤解しないでほしいが、嘆いてもいないし、懐かしんでもいない。ただの事実。)そして、保護者もそういうことに理解してくれる人がどんどん多くなっていることも事実。

だって、個人主義の時代なんだもの。

というわけで、ここが日本の特徴だと思う。

つまり、もともとムラ的社会の中で、社会の中の関係とか役割で動いてきた僕らは、個人主義の対義語に社会とか関係をおいて、個人の反対にあるものを「悪」ととらえるようになった。ボランティアでさえ、相手ではなく、自己実現の言葉のようにぼくらは使いかねない。

でも、よく考えてみると、人間の生活は一人で成り立つものではない。たとえば、救急車がただでこなくなったら、病気の人を誰かが運ばないといけない。子育てだってそうで、育休みんながとって町中に子どもがあふれたら、それは目にした人みんなが許容してあげないといけない。

つまり、個人主義が進むところ、その隙間を埋めるのはボランティアで、それなしに社会は成り立たない。小論文的にいうと、小さい政府になればなるほど、ボランティアと協力が欠かせないし、大きな政府というのは、個人が本来社会的義務としてやらなければいけないことを、誰かに(この場合は政府や行政に)代行してもらう仕組み。

だから、日本では保育園が好まれる。ぼくらは個人の時間が大事で、子育てを代行してほしいから。本当は育休という選択肢もあるけれど、日本人は好まない。個人の時間がとられるからだ。

欧米が育休中心で保育園が少ないのと比べると感覚的にわかるかもしれない。

だから、もともと個人を尊重していた欧米は、隙間を埋めるボランティアの重要性はしっかりわかっているはず。だからおそらく部活動が地域に移行する…なんてことがもともとなんだから起こるわけないけれど…おこったとしても、みんなでボランティア的に支えるだろうということは想像できる。

でも、きっと日本では、ボランティアは個人の時間を搾取する悪の象徴だから、ボランティアを自分の人生の生きがいとする少数派以外は、おそらく、きちんとした指導者に相応のペイを払う、という思想になるに違いない。

となると、最初の話に戻るけれど、スポーツは、お金がある人がはじめてできるものになるんだろうなと思う。

個人主義だからこそ、ボランティア的な社会がかる~くできている他国と、もともと協力的だからこそ、徹底した個人主義に進んで、自己犠牲的なことを嫌う日本。

日本ではボランティアが偽善とか欺瞞とかでとらえられることも多いけれど、きっとこういうところに根っこがあるのかもしれない。まあ、宗教的な要因も大きいだろうけれど。

全中が縮小される話。

 突然舞い込んできた、全中から水泳競技など9競技がはずされた縮小されるという話。論理的に考えればそうなるよね、とは思うものの、まさか一気にこんな感じの決着をするとは思わなかった。

 あんまり知らない人のために、水泳競技の実情を。水泳選手は、スイミングクラブで練習している。で、学校の水泳部はどんどんつぶれている。すでに。

 僕らが中学生の頃は、スイミングに入っていても、学校に水泳部があって両方で練習していた。でも、いつのころからか、学校は部活動が負担になって、なくなっても活動ができる水泳部は真っ先に目をつけられてなくなってしまった。だから、スイミングで練習をする。だけれど、全中というのは学校のくくりの大会だから、水泳部がなくても学校名で出なければいけない。だから、その予選から、水泳部のない学校の先生がかりだされて引率をし、大会の役員をしていく。こんないびつな形になった。

 で、去年から地域クラブに移行するということで、スイミングクラブ名で、スイミングクラブ所属のまま、学校名で大会に出ることができるようになった。ということは、学校の先生が引率しなくていいじゃん…ということなんだけれど、多くのスイミングは今まで引率してもらっていたものを、自分たちが引率して自分たちが役員をやるのは大変だから、初年度ということもあって、様子見というか、ほとんど今まで通り学校の先生が引率するしかなかった。

 今年がその二年目。少しはスイミングから出る選手も出始めたな、と思った矢先のこのニュース。

 なんで、こんな手になるかというと、水泳にはジュニアオリンピックという大事な全国大会がある。スイミングは、これを目指して練習する。小学生、中学生、高校生が年齢区分で戦っている。で、横に、全中とインターハイがある。連盟としても大きな全国大会が中高ともに連続することになっているのは、改善の余地があると考えていたはずで、実際、八月の半ばに同じ日程で全中とインターハイ、終わったらすぐ、ジュニアオリンピックという流れ。

 だから論理的に考えれば、「いらなくね?」ということなんだけれど、まさか全中なくすなんて思わなかったからびっくりした。だって、他競技もあるし。そうだよね。水泳だけやめればいいんだもんね、と冷静に考えればわかるお話。

 

 で、そりゃ地域移行の中で当然の話なんだけど、巷のネットの書き込みみているとよくわかっていないことがいくつか書き込まれているので、そのあたりをいくつか補足しとく。

 

  1. 全国大会がなくなった先生が楽になるという話。これは、あくまでも関係のない善意の先生のお話。これは大事で楽をしてもらわなければいけない。でも、これでもっときつくなるのが水泳に関わってしまっている学校の先生。巷では「連盟」とか「クラブチーム」とか言われているけれど、どこの都道府県の水泳連盟も実態はボランティア。これ、日本水泳連盟もまったく同じ。自分もそういう仕事をやっているけれど、お金なんてまったく出ない。会議の時にお金がちょっと出るけれど、交通費と比べたら赤字になってしまうような額だし、大会の手当も一日で2000円とかそういうレベル。だから、実は県の連盟なんて、結局はタダで働いてくれるボランティアでもっている。じゃあ、それは誰だっていうと、結局は水泳に関心のある「教員」ということになって、実際、大会には多くの教員がかりだされる。学校の大会と連盟の大会の大きな違いは、かりだされるのが、関係のない先生でなく、関係のある先生だっていうことぐらい。ついでに書いておくと、水泳連盟でお金がちゃんと出るのは事務局の人ぐらいで、偉い人も含めてお金なんか出ない。だからかどうかわからないけれど、いたるところでお金にまつわるよくない話は結構耳にする。戻ると、スイミングクラブの大会がある限り、水泳に関係する先生は楽になることはなかったりする。結局、世の中はただで働かせられる人で持っている。
  2. つまり、この問題は、大会であったり、そういうものがいかにお金をかけずに作られているかということによる。いいプールを借りるだけでも結構お金がかかって、働く人に正規のお金を払うと、とんでもない参加費が必要になる。じゃあ、それを受益者負担でやれるかというと、残念ながらそれはみんながいやだと言い出すだろうと予測が立つ。
  3. となると、設備ぐらい、つまり、プールぐらいただで使いたいよね…という話になるけれど、それは公的なものであるなら、箱物の赤字でたたかれる。だから、現代において、プールを作ろうとか修理しようとかいう話にはならないし、やっと作ったとしても、そこには市民や県民や国民がいて、「なんで大会なんてやるんだ!税金払っているおれらが使えないじゃないか!」なんていう声が結構な確率で届く。だから少しでも安くやらなくちゃいけないから、ボランティアに頼るしかない。

というわけで、この国のスポーツの未来は暗い。まあ、それはそれでしょうがない。考えてみれば、僕らが子どものころに空き地で野球やサッカーをやったような環境はすでになく、お金をはらってスポーツをする時代がやってきた。つまり、お金のない人はスポーツなんてやる環境にないのだ。だからこそ、教員がボランティアとして…という堂々巡りを続けていく。

 というわけで、全中から競泳がなくなるのは、普通の学校の先生にとっては大きな一歩だけれど、水泳に関わる先生には関係なく、ボランティアしつづけなければいけない環境は変わらず、水泳を続けるためには必ずスイミングクラブに入って、お金を払い続ける流れの中に進むしかない。

 まあ、そういう時代なんだろうなという話。

人を信じるということ

世間は大谷くんの話題で持ちきりだ。

 

人間はいいときばかりでなく、必ず悪いときもくるというような、運命論さえ感じてしまう。人生を作ってきた大谷くんでさえこうなるとするなら、悪いときはじっと耐えるしかないし、それを乗り越えて学ぶことが人間には必要なんだ、という学びさえ起こってしまうかもしれない。

 

それはさておき、人を信じることは難しい。そもそも信じるというのは、何なのか。人を信じるといったとき、人の何を信じているのか。過去か、実績か、言葉か、行動か、思いか、性格か。仮にひとつに決めたとしても、「じゃあ性格って何?」っていう問題につながっていってしまう。

きっと、大谷くんだけでなく、なんだかわからない僕らだって、何かを信じて発言している。

 

というより、むしろその前提で全てが始まっている。

不倫をした人だって、たたかれる人とたたかれない人がいる。普通に復活する人もいれば、いつまでもたたかれ続ける人もいる。そういうものを一言で片付ければ、「人」。いろんな人のケースで、いろんな人が、いろんな観点で語るが、何を言ったところで、それは「人」。

 

炎上するような有名人に限らず、僕らは結局「人」で見られている。

僕がやっているような仕事でいうと、「いい先生」と「そうでない先生」とかそういうものはあらゆる場面で結局は決まっていてそれでみられていく。

たとえば、クラスで問題が起こったときに「あの人のクラスだから」と言われることもあるけれど、「いい先生」のクラスで何か問題が起こったとしても「あの先生でもそうなるんだから、よほど生徒が悪いんだよ」なんてなったりする。

要するに、先に評価が決まっていて、そこで全ての事象が説明される。

そんなの仕方ない。だって、同じ事を人や方法を変えてふたつの結果を比べる…なんてことはできないわけだから、どうにかなったのか、どうすることもできなかったのかなんて誰にもわからない。

それが「信じる」ということ。

まあ、すべてはそんなもの。

大谷くんにしても、通訳にしても、コメンテーターにしても、僕らはどこかで「人」の評価をしていて、その「人」が何を言っているかによって、考え方が変わる。発言を「信じる」前提には、「人」に対する信仰がある。これは必ずしもポジテイゥヴなものではなく、ネガティヴな意味においても。

つまり、ある程度のポジティヴな信頼がある場合、発言は好意的に受け取られ、ネガティヴな評価が定まっているとするなら、「そうはいっているけれど…」と説明を信じてもらえなくなっていく。

せめて、僕らはそういうあまり根拠のない信仰の中にいるということを自覚したいものだとは思う。そういう曖昧な中で、同じことが起こっても「人」が誰かでどんな評価がされていくわけだ。

で、結局、僕らはそういう曖昧な信仰から逃げることはできない。そういう枠組みは必ず存在していて、それをなくすことは不可能だ。

逆に言えば、評価を避けることは思考を止めることともイコールで、だから別に自覚さえしていれば、多少なりとも偏見がまじるような予測や意見がいけないわけではない。

ただ、それは本来、ただの推測で、憶測で、ちゃんと知らない「人」を勝手に評価して、その枠組みでなんとなく考えるようなものだ。

そう。

いけない訳でもなく、飲みながら、家族や友人と言いたいことを言い合う、その程度のことだと思う。

問題なのは、飲み屋でおっちゃんがつぶやいたことが世界に広まったりはしないし、家族と家の中で子どもに嫌な顔されるような話が、誰かに引用されたりはしない。

でも、今はそうじゃなくて、SNSでつぶやいたことが記事に引用されたり、ヤフーコメントが読まれて、それが常識という枠組みをつくっていたりする。

本当に怖いことだと思う。

でも、ぼくらはもうそういう中にいる。僕ら自身が、会ったこともなければ、つきあったこともない、友達でもない人を、平気で決めつけて発言して、その発言がまた誰かの常識を作っていく。

まあ、そんなことを思う。

おそらく、だけれども、人間は普段の振る舞いと常に何もかもが結びついているわけではなく、ある部分ではとてもいい人であっても、裏でどんなことが起こっているかはわからないこともある。「ことも」であって、そうでないケースも当然あるだろうが、人間はそんなものだ。すごい悪人が、毎日悪人かといえば、突然善行をすることもあるだろうし、ある分野だけ、突然悪人になることもあるはずだ。

でも、僕らはよくわからない会ったこともない人の「人」を信じているから、理解できなかったりするんだと思う。

今回の話は、なんとなくだけれど、たぶん僕らが見えていた、彼らの関係は確かにそういう憧れるようなものとして存在し、彼もそういう振る舞いをしていたはずで、そういう意味でいえば僕らが見ていたものが間違っているわけではないんだと思う。

でも、きっと誰にも見えていないところで、当たり前だけれど、彼の行動や考えがあったりして、それはきっと彼らの素晴らしい関係とは切り離さないといけない。

だから、彼の発言が撤回されたことさえも、こうした文脈で見てはいけない。最初から大嘘だから撤回しなくちゃいけないのかもしれない。彼を「大嘘つき」として見ている人はきっとそうとしか見ないし、彼を「正直な人」として見ている人は「外部的なプレッシャー」や「政治」として見るんだと思う。そんな文脈がそもそもただ信じられているだけなのに。

どっちにしたって、僕らにわかるわけがない。僕らより専門的知識があるだろう専門家やコメンテーターだってわかるはずがない。まして、それを聞いた僕らの意見なんて本当はまったく意味がない。

そもそも、ただ信じているだけの話で、根拠や理由なんて曖昧なものだから。

実際には、当事者の大谷くんが一番「信じる」ことの難しさを痛感しているはず。そんな問題であるにも関わらず、外野の僕らは自分が「信じる」力がある前提で、好き勝手に展開していく。

信じることって難しい。

 

教育と厳しさ

先日、イチローさんが旭川東高校を訪れたというニュースがあった。イチローさんの話は本当に勉強になって、今までも様々なことを参考にしてきた。

で、ちょっとショックだったのが、

「指導者、厳しくできないって。時代がそうなっちゃってて。厳しくできないと何が起こるかっていうと自由にできちゃうからね。なかなか自分に厳しくできないでしょ。今、自分を甘やかすことはいくらでもできちゃうよね。でもそうなってほしくない。いずれ苦しむ日が来るから、大人になって社会に出てから。できるだけ自分を律して厳しくする。(部員同士)仲良しだから、『ホントはこれ言いたいけどやめとこうかな』ってあるでしょ。でも信頼関係が築けてたらできるでしょ、『お前それ違うだろ』って。言わなきゃいけないことは、1年から2年に言ったっていいよ。『先輩これは違うんじゃないか』。そういう関係が築けたら、チームや組織は絶対強くなれますよ。それを遠慮してみんなとうまく仲良くやるでは、いずれ壁が来ると思う。それがこの2日間で感じたこと」

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というところ。

まあね。

厳しくできないというのは、もうとっくに気付いていて、スポーツの指導としても、学校の先生としても、厳しくできないことは察していたので、別にイチローさんに教えていただいたわけではないんだけれど、イチローさんからこういうコメントが出てくるということは、もはやこれが常識となったんだなと。

「強くなるために」「成長するために」とか、そういう言葉もつかないぐらい当たり前になったということ。

本当に面倒くさいんですが、変にとられると炎上案件なのでちゃんと書いておきますが、厳しい指導への憧れとか信仰とかノスタルジーなんてない。現場は本当に厳しくて、こういう仕事を生業としていく以上、リスクは排除するしかなくて、現場レベルでは「厳しい指導」なんてやりたいなんて思わない。怒られちゃうかもしれないけど、どこかから「厳しい指導」を求めるような、言い換えるなら容認するような、リクエストなんて平気で出てくる。でも、そんなの信じて、指導を徹底したりしたら、後でハシゴを外されて、厳しい指導に対する批判が出てくるなんて当たり前なので、絶対にしないし、なんならやってるふりをして、指導なんてしない。

今の時代、現場はそんなもの。

だから、イチローさんの言葉によって「気付いた」とか言葉に「反論する」とか、そんなつもりはまったくない。(くどい。)

「ショック」というのは、一番それが許容されてきたスポーツの、その中でも厳しい指導の権化のような高校野球で、しかも、それが選手に向かって、だから「自分たちでやろうね」というところまで、時代は進んだんだ…というようなこと。

まあ、とっくに自分の中では、「教育」や「指導」については、何かをなそうという気はなくなっていて、つまり、「収入を得る」「仕事」となっていて、何かこういうところに連れて行きたいみたいなことはなくなった。

もともと、自分の「こういうところ」っていうのは、「自立」であって、「自分で学べる生徒」で、「学び続ける生徒」で、だから「学び方を教える」…というようなところを折り合いをつけてやってきたわけだけど、そこには最後に「…生徒を育てる」とか「…を教える」というようなものがついていて、今や、その最後の部分に、「生徒がそれを望むなら」という注釈をつけてきているので、そういう意味のショックではない。

もっというなら、自分が先行してそういていると思っていたら、実は世の中それが当たり前だった、みたいなショックなので、なんなら「どれだけうぬぼれてるんだ」みたいな話ではある。

でも、自分としては、世の中がそうだとするなら、もっともっと戒めてもっともっと教育や指導から遠ざかる必要がある。

これは、ある意味で恐ろしい話で、特に公的なものがどんどんこうなってくるということ。つまり、親が求めたところで、そんなものは一切ない。

あるとするなら、それはどこか別の場所で与えなければいけない。それだって、この常識の範疇だろうから、みんなと同じように胡座をかいていたら、何もやってこない。

つまり、親が自分の子どもを、「自ら学ぶ子ども」にした上で、なんらかの教育機関、塾であるとか習い事であるとかに送り出すことを意味する。

そこで学ぶんじゃなくて、学んでから塾に行く。

要するに、家庭が問われ、環境が問われる。

個人の時代がやってきて、格差の時代がやってきたんだなと実感する。

「おしいれのぼうけん」と時代の変化

「おしいれのぼうけん」という童話を知っているだろうか。調べてみると、1974年に発表されたふるたたるひの名作だ。

保育園が舞台で、昼寝とかの時に大騒ぎをすると、罰としておしいれに閉じ込められ、そこで、こどもは「ねずみばあさん」と出会う。保育園の先生たちも、こどもたちが「ごめんなさい」というのを待っているけど、なかなかいわなくて…

というようなお話。

人形劇の中のねずみばあさんに、実際におしいれの中で出会って…というようなものが話の軸で、このねずみばあさんのキャラクターが立っていて、グッズができてしまうような、有名な作品ということになる。

で、なんでこんな話を書くかと言えば、不適切保育とかが話題になったから。

閉じ込めたり、怒鳴ったり、殴ったり。門扉が開いていて、コンビニで保護された…なんていう話題もあったし。

いずれも「不適切」であることは間違いない。

別に、「不適切だけど許せ」とか、「不適切なことでも教育には必要だ」とか、そんなことを書きたいわけではない。

もはや、ちょっとそんなことを書いた瞬間に炎上する時代は確実にやってきていて、「不適切」なものは不適切として認めるしかないし、起こさないように気をつけるしかないし、起こしたとすれば非を認めるしかない。

保育園とか学校とかという教育の現場において、あるいは親と子というような家庭環境において、はたまた習い事のような塾やスポーツなどの現場において、人と人が接する以上、残念ながら「不適切」な指導が起こることはある。必ず起こるのだから仕方ない、というようなことを言うつもりはない。起こることは仕方がないにしても、不適切であるなら起こさないように、起きないようにしていくしかないからだ。

まして、現代において、「起きても仕方がない」などという言説はそれ自体が批判対象であるわけだから、決してそんなことを書くつもりはない。

しかし、「おしいれのぼうけん」は、多くの場合「名作」として認められていて、おそらくきっと最近までそう思われていたはずだ。

もちろん、「おしいれのぼうけん」では先生が「ごめんなさい」と言わなくて、出したいのに出せなくて胸を痛めるシーンがあるとはいえ、そんなことで擁護できるのなら、きっと今問題になっている様々な不適切な指導にも「教育」という、先生の側の事情が持ち出されてしかるべきはずだ。

もう一度書く。

擁護するつもりはまったくないので、つまり、どんな理由であっても不適切な指導はいけない、というのが現代で、だからこそ、「おしいれのぼうけん」の指導は不適切な指導にほかならない。擁護できないのだ。少なくとも現代においては。

逆に言えば、それが擁護されていたり、あるいはもっと踏み込むと認められたりしていた時代が、少なくとも1974年当時にはあって、それが名作として認められてきた経緯を考えれば、つい最近までそういう教育観が支配されていたはずだ。

でも、現代は違う。

下手をすれば、その行為だけで、テレビのニュースに取り上げられ、謝罪会見の様子が流れたり、被害を受けた子どもの保護者のインタビューが流れたりするのだろう。

特に何を書きたいわけでもない。

ただ時代は変わったのだ。

この間も、廃案になったけれど、さいたまで、子どもをひとりにしちゃいけない、子どもをひとりで歩かせない、遊ばせない、という条例が可決されそうになった。

ぼくらの時代は「鍵っ子」なんて言葉もあったし、習い事に1人で行くことも普通だったけれど、それが「虐待」と紙一重のところまで、時代はやってきたようだ。

正直、この条例が廃案になったのだって、「そんなこと言われたら「親」は仕事なんてできない。ずっと子どもについていないといけない」という、親側の理由であって、決して、子ども目線の理由ではない。

「そんなことができればいいだろうけど、そんなことをしたら親が「個人」として、「私」として生きることができないから、行政が制度を作ってくれるならともかく、今のままなら無理です」

ということでしかないのだ。

結局は、大人の都合で、ある種の責任を行政的な機関に託して、その中で起こるさまざまな問題をある意味ではおしつけるわけだ。

怪我もするだろうし、病気にもなるだろうし、誤飲もするかもしれないし、ケンカもするかもしれないし。

いやそれどころじゃない。親や祖父母が子どもを車に置き去りにしたとしても、保育園に来ていないことに気づかない制度や機関の責任になってしまうのだから。

まあ、仕方がない。確かに気づけば防げたかもしれないのだから。

今や、家庭の問題でさえ、条例が入り込んでコントロールしなければいけない。そうしなければ責任が問われてしまう。

保育園の門扉があいていて、子どもが抜け出して、コンビニで保護される。保育園は通報を受けるまで、その子どもがいないことに気づかない。

もちろん、問題だし、管理が問われるのは当たり前。気づかなかった、では済まされない。それは当然。

でも、本当は子どもの問題でもあるはずで、もちろん言ったって聞かないんだよ、小さいころは…というのは大前提として、それでも何度も言い聞かせて僕らは大人になっていく。

少しずつ、僕らはそうした機会を失っていく。そもそもそうならないように、僕らは誰かの責任において管理されるわけだから。

かくして、僕らは「おしいれのぼうけん」なんてできるはずもなくなっていく。まあ、コンプライアンスにひっかかって、また発禁になったりするのかもしれないから、「おしいれのぼうけん」なんてしようとさえ思わないかもしれないけれど。

不適切な指導を容認せよ、なんてことではなくて、ただ、ちょっと悲しいというか、時代は変わったんだなと思う。

で、こっちはちょっと腹立たしいのは、ついこの間までみんなが許容していたことを、なんだか自分だけは「昔から問題だと思っていました」みたいな顔で発言すること。まあ、「昔は問題ではなかったんですけど、時代ですからね」なんて書いたら結局炎上しかねないから、仕方ないかもしれないけれど。

罪の認識と同調圧力

なんとなく、あの問題について書き残しておきたい。

 

行われたことは間違いなく犯罪であるので、行われたことが確かであるとするなら、まず、ここに何かをさしはさむ余地はない。もちろん、それが確かに行われたことであるのかどうか疑義をはさむ人もいるだろうし、これから出てくる被害者が全員確かに被害者かということはなんらかの確認が必要なのかもしれないけれど、現時点において、ただ報道を見聞きしている僕らからすれば、「確からしい」ことは間違いなさそうで、だとするとそれは「いつの時点においても」「犯罪」であり、それ以上でも、それ以下でもない。

 

しかし、新しく社長などという責務を背負っていた人に、「それを知っていたのか」「なぜ確かめなかったのか」「行動を起こさなかったのか」などと責任を追及する様子を見ていくとなかなか難しいものを感じはじめる。

 

もちろん、その当時において経営に責任のある人は別だ。犯罪の可能性があることを見聞きしているとするならば、そこに責任は生じるわけで、そこを追及することは当然のことだ。

 

しかし、そうでない場合はどうなのだろうか?

ふと考えてしまう。

もちろん、ある種の「悪」を確実に把握したとするなら、善意の第三者であってもある種の責任は生じるだろう。たまたま犯罪を見かけてしまった時、それが「確か」であると自覚したなら、「見ないふり」には責任を生じる。

しかし、「噂」であるとするなら?

「確か」だと確証が持てないとするなら?

それはどうなのだろうか。

もちろん、道義的にそこを確認して追及しなかった責任はあるのかもしれない。でも、この問題の場合、おそらくきっとそのことを「みんな」知っていたのだと思う。

それこそ、芸能の世界と何の関わりを持たない一般人の大学生だった私ぐらいでさえ、その「噂」は確からしい噂として把握していたわけだから、メディアの世界の人とか、芸能の世界の人とかそういう人たちが知らないはずはない。

でも、確かだという確証がない限り、あらぬ噂や根拠のないゴシップである可能性があるとすれば、動かないのは当たり前。

根拠のない噂で大騒ぎをすれば、それこそフェイクニュースを広める輩と大差はないわけで、「確からしい」としても「確かではないのだから」と言い聞かせて、僕らは貝になっていくわけだ。

まして相手が権力であるとするなら。

そういう構造の中でみんなが貝になって、見ないことにして、黙ってきたわけだ。

で、こうして発覚すると、メディアの人が新しい社長などの責任を持つ人に追及をはじめていく。

しかし、過去においてあなたはどうだったのか?そう矛先を向けられて、はっきりと「私は戦ってきました。訴えてきました。」と胸をはれる人はほとんどいないに違いない。

そういう状況において、「知っていたのか」「行動しなかったのか」と詰め寄ることははたして正しいのか?

結局は、みんなが黙っている時は沈黙し、みんなが声をあげたからその流れに乗って自分を正当化しているだけにすぎないのだ。

僕らは過去を忘れる。

得たいのしれない雰囲気は、まさにみんなで作りあげたもので、もちろん自分だって他者からすれば「みんな」の一員に過ぎないのだけれど、僕らは「みんな」の圧力によって、自分が正しくない選択を強いられた、と解釈する。

だからこそ、本来、その当時責任をとれた人、行動を起こせた人、つまり「みんな」の中でも責任の重い人を必要としているわけで、そういう責任を誰かに押しつけながら、「あなたが行動しないから、みんながこうなったんですよね?」とでも言いたげに質問をしていく。

でも、その追及されている人だって過去においては、みんなの一員に過ぎず、責任を持っていたわけではない。今、責任を持っているだけで、当時はなかったし、あるとすれば、みんな、つまり、あなたと同じ程度の責任のはずなのだ。

メディアは、そしてそれを受け取る僕らもその責任には触れない。触れたとしても、「もっとなんとかできる誰かがいたんじゃないのか」という形でしか触れない。

でも、メディアは本来、その「みんな」を形成するそのものであって、むしろ責任しかないはずなのに。

 

とはいえ、この問題、このテーマの難しいところは、次の点にもある。

なぜ、当時追及できなかったかといえば、見過ごしてきた責任による罪悪感もあるだろうからだ。

僕らはなんとなく知っていたのに、「確からしいけど、確かであるという確証はないから黙る」という選択をした。その責任、その罪悪感は、追及の矛先を鈍らせる。

黙ってしまった自分。だから責められない。一度黙ってしまうと、みんな同罪だよねとばかりに、黙らせる同調圧力が働く。

そして、今までこうなったわけだ。

二度と起こさないためには、追及は欠かせない。

しかし、良識があって、罪悪感をもつメディアの人は、きっと追及の矛先を他人に向けきれないのだろうと思う。

それでもなぜ、こうなったのかを自らも含めて明らかにしていかないといけないのだと思う。

結局は、ある種の同調圧力の問題で、その仕組みをどう暴くかという話でもある。

そして、過去の問題を現在の自分からだけ考えず、過去の自分のありようを正確に読み解こうとする作業でもある。

でも、そんな面倒なことをするメリットは多くの人にはないから、とりあえず自分よりももっと責任のある人を見つけて、そのせいにしていく。

同調圧力というのは、結局は責任の問題で、自分の責任から目を背けようとする仕組みなのだろうなと思う。