全中が縮小される話。

 突然舞い込んできた、全中から水泳競技など9競技がはずされた縮小されるという話。論理的に考えればそうなるよね、とは思うものの、まさか一気にこんな感じの決着をするとは思わなかった。

 あんまり知らない人のために、水泳競技の実情を。水泳選手は、スイミングクラブで練習している。で、学校の水泳部はどんどんつぶれている。すでに。

 僕らが中学生の頃は、スイミングに入っていても、学校に水泳部があって両方で練習していた。でも、いつのころからか、学校は部活動が負担になって、なくなっても活動ができる水泳部は真っ先に目をつけられてなくなってしまった。だから、スイミングで練習をする。だけれど、全中というのは学校のくくりの大会だから、水泳部がなくても学校名で出なければいけない。だから、その予選から、水泳部のない学校の先生がかりだされて引率をし、大会の役員をしていく。こんないびつな形になった。

 で、去年から地域クラブに移行するということで、スイミングクラブ名で、スイミングクラブ所属のまま、学校名で大会に出ることができるようになった。ということは、学校の先生が引率しなくていいじゃん…ということなんだけれど、多くのスイミングは今まで引率してもらっていたものを、自分たちが引率して自分たちが役員をやるのは大変だから、初年度ということもあって、様子見というか、ほとんど今まで通り学校の先生が引率するしかなかった。

 今年がその二年目。少しはスイミングから出る選手も出始めたな、と思った矢先のこのニュース。

 なんで、こんな手になるかというと、水泳にはジュニアオリンピックという大事な全国大会がある。スイミングは、これを目指して練習する。小学生、中学生、高校生が年齢区分で戦っている。で、横に、全中とインターハイがある。連盟としても大きな全国大会が中高ともに連続することになっているのは、改善の余地があると考えていたはずで、実際、八月の半ばに同じ日程で全中とインターハイ、終わったらすぐ、ジュニアオリンピックという流れ。

 だから論理的に考えれば、「いらなくね?」ということなんだけれど、まさか全中なくすなんて思わなかったからびっくりした。だって、他競技もあるし。そうだよね。水泳だけやめればいいんだもんね、と冷静に考えればわかるお話。

 

 で、そりゃ地域移行の中で当然の話なんだけど、巷のネットの書き込みみているとよくわかっていないことがいくつか書き込まれているので、そのあたりをいくつか補足しとく。

 

  1. 全国大会がなくなった先生が楽になるという話。これは、あくまでも関係のない善意の先生のお話。これは大事で楽をしてもらわなければいけない。でも、これでもっときつくなるのが水泳に関わってしまっている学校の先生。巷では「連盟」とか「クラブチーム」とか言われているけれど、どこの都道府県の水泳連盟も実態はボランティア。これ、日本水泳連盟もまったく同じ。自分もそういう仕事をやっているけれど、お金なんてまったく出ない。会議の時にお金がちょっと出るけれど、交通費と比べたら赤字になってしまうような額だし、大会の手当も一日で2000円とかそういうレベル。だから、実は県の連盟なんて、結局はタダで働いてくれるボランティアでもっている。じゃあ、それは誰だっていうと、結局は水泳に関心のある「教員」ということになって、実際、大会には多くの教員がかりだされる。学校の大会と連盟の大会の大きな違いは、かりだされるのが、関係のない先生でなく、関係のある先生だっていうことぐらい。ついでに書いておくと、水泳連盟でお金がちゃんと出るのは事務局の人ぐらいで、偉い人も含めてお金なんか出ない。だからかどうかわからないけれど、いたるところでお金にまつわるよくない話は結構耳にする。戻ると、スイミングクラブの大会がある限り、水泳に関係する先生は楽になることはなかったりする。結局、世の中はただで働かせられる人で持っている。
  2. つまり、この問題は、大会であったり、そういうものがいかにお金をかけずに作られているかということによる。いいプールを借りるだけでも結構お金がかかって、働く人に正規のお金を払うと、とんでもない参加費が必要になる。じゃあ、それを受益者負担でやれるかというと、残念ながらそれはみんながいやだと言い出すだろうと予測が立つ。
  3. となると、設備ぐらい、つまり、プールぐらいただで使いたいよね…という話になるけれど、それは公的なものであるなら、箱物の赤字でたたかれる。だから、現代において、プールを作ろうとか修理しようとかいう話にはならないし、やっと作ったとしても、そこには市民や県民や国民がいて、「なんで大会なんてやるんだ!税金払っているおれらが使えないじゃないか!」なんていう声が結構な確率で届く。だから少しでも安くやらなくちゃいけないから、ボランティアに頼るしかない。

というわけで、この国のスポーツの未来は暗い。まあ、それはそれでしょうがない。考えてみれば、僕らが子どものころに空き地で野球やサッカーをやったような環境はすでになく、お金をはらってスポーツをする時代がやってきた。つまり、お金のない人はスポーツなんてやる環境にないのだ。だからこそ、教員がボランティアとして…という堂々巡りを続けていく。

 というわけで、全中から競泳がなくなるのは、普通の学校の先生にとっては大きな一歩だけれど、水泳に関わる先生には関係なく、ボランティアしつづけなければいけない環境は変わらず、水泳を続けるためには必ずスイミングクラブに入って、お金を払い続ける流れの中に進むしかない。

 まあ、そういう時代なんだろうなという話。

人を信じるということ

世間は大谷くんの話題で持ちきりだ。

 

人間はいいときばかりでなく、必ず悪いときもくるというような、運命論さえ感じてしまう。人生を作ってきた大谷くんでさえこうなるとするなら、悪いときはじっと耐えるしかないし、それを乗り越えて学ぶことが人間には必要なんだ、という学びさえ起こってしまうかもしれない。

 

それはさておき、人を信じることは難しい。そもそも信じるというのは、何なのか。人を信じるといったとき、人の何を信じているのか。過去か、実績か、言葉か、行動か、思いか、性格か。仮にひとつに決めたとしても、「じゃあ性格って何?」っていう問題につながっていってしまう。

きっと、大谷くんだけでなく、なんだかわからない僕らだって、何かを信じて発言している。

 

というより、むしろその前提で全てが始まっている。

不倫をした人だって、たたかれる人とたたかれない人がいる。普通に復活する人もいれば、いつまでもたたかれ続ける人もいる。そういうものを一言で片付ければ、「人」。いろんな人のケースで、いろんな人が、いろんな観点で語るが、何を言ったところで、それは「人」。

 

炎上するような有名人に限らず、僕らは結局「人」で見られている。

僕がやっているような仕事でいうと、「いい先生」と「そうでない先生」とかそういうものはあらゆる場面で結局は決まっていてそれでみられていく。

たとえば、クラスで問題が起こったときに「あの人のクラスだから」と言われることもあるけれど、「いい先生」のクラスで何か問題が起こったとしても「あの先生でもそうなるんだから、よほど生徒が悪いんだよ」なんてなったりする。

要するに、先に評価が決まっていて、そこで全ての事象が説明される。

そんなの仕方ない。だって、同じ事を人や方法を変えてふたつの結果を比べる…なんてことはできないわけだから、どうにかなったのか、どうすることもできなかったのかなんて誰にもわからない。

それが「信じる」ということ。

まあ、すべてはそんなもの。

大谷くんにしても、通訳にしても、コメンテーターにしても、僕らはどこかで「人」の評価をしていて、その「人」が何を言っているかによって、考え方が変わる。発言を「信じる」前提には、「人」に対する信仰がある。これは必ずしもポジテイゥヴなものではなく、ネガティヴな意味においても。

つまり、ある程度のポジティヴな信頼がある場合、発言は好意的に受け取られ、ネガティヴな評価が定まっているとするなら、「そうはいっているけれど…」と説明を信じてもらえなくなっていく。

せめて、僕らはそういうあまり根拠のない信仰の中にいるということを自覚したいものだとは思う。そういう曖昧な中で、同じことが起こっても「人」が誰かでどんな評価がされていくわけだ。

で、結局、僕らはそういう曖昧な信仰から逃げることはできない。そういう枠組みは必ず存在していて、それをなくすことは不可能だ。

逆に言えば、評価を避けることは思考を止めることともイコールで、だから別に自覚さえしていれば、多少なりとも偏見がまじるような予測や意見がいけないわけではない。

ただ、それは本来、ただの推測で、憶測で、ちゃんと知らない「人」を勝手に評価して、その枠組みでなんとなく考えるようなものだ。

そう。

いけない訳でもなく、飲みながら、家族や友人と言いたいことを言い合う、その程度のことだと思う。

問題なのは、飲み屋でおっちゃんがつぶやいたことが世界に広まったりはしないし、家族と家の中で子どもに嫌な顔されるような話が、誰かに引用されたりはしない。

でも、今はそうじゃなくて、SNSでつぶやいたことが記事に引用されたり、ヤフーコメントが読まれて、それが常識という枠組みをつくっていたりする。

本当に怖いことだと思う。

でも、ぼくらはもうそういう中にいる。僕ら自身が、会ったこともなければ、つきあったこともない、友達でもない人を、平気で決めつけて発言して、その発言がまた誰かの常識を作っていく。

まあ、そんなことを思う。

おそらく、だけれども、人間は普段の振る舞いと常に何もかもが結びついているわけではなく、ある部分ではとてもいい人であっても、裏でどんなことが起こっているかはわからないこともある。「ことも」であって、そうでないケースも当然あるだろうが、人間はそんなものだ。すごい悪人が、毎日悪人かといえば、突然善行をすることもあるだろうし、ある分野だけ、突然悪人になることもあるはずだ。

でも、僕らはよくわからない会ったこともない人の「人」を信じているから、理解できなかったりするんだと思う。

今回の話は、なんとなくだけれど、たぶん僕らが見えていた、彼らの関係は確かにそういう憧れるようなものとして存在し、彼もそういう振る舞いをしていたはずで、そういう意味でいえば僕らが見ていたものが間違っているわけではないんだと思う。

でも、きっと誰にも見えていないところで、当たり前だけれど、彼の行動や考えがあったりして、それはきっと彼らの素晴らしい関係とは切り離さないといけない。

だから、彼の発言が撤回されたことさえも、こうした文脈で見てはいけない。最初から大嘘だから撤回しなくちゃいけないのかもしれない。彼を「大嘘つき」として見ている人はきっとそうとしか見ないし、彼を「正直な人」として見ている人は「外部的なプレッシャー」や「政治」として見るんだと思う。そんな文脈がそもそもただ信じられているだけなのに。

どっちにしたって、僕らにわかるわけがない。僕らより専門的知識があるだろう専門家やコメンテーターだってわかるはずがない。まして、それを聞いた僕らの意見なんて本当はまったく意味がない。

そもそも、ただ信じているだけの話で、根拠や理由なんて曖昧なものだから。

実際には、当事者の大谷くんが一番「信じる」ことの難しさを痛感しているはず。そんな問題であるにも関わらず、外野の僕らは自分が「信じる」力がある前提で、好き勝手に展開していく。

信じることって難しい。

 

教育と厳しさ

先日、イチローさんが旭川東高校を訪れたというニュースがあった。イチローさんの話は本当に勉強になって、今までも様々なことを参考にしてきた。

で、ちょっとショックだったのが、

「指導者、厳しくできないって。時代がそうなっちゃってて。厳しくできないと何が起こるかっていうと自由にできちゃうからね。なかなか自分に厳しくできないでしょ。今、自分を甘やかすことはいくらでもできちゃうよね。でもそうなってほしくない。いずれ苦しむ日が来るから、大人になって社会に出てから。できるだけ自分を律して厳しくする。(部員同士)仲良しだから、『ホントはこれ言いたいけどやめとこうかな』ってあるでしょ。でも信頼関係が築けてたらできるでしょ、『お前それ違うだろ』って。言わなきゃいけないことは、1年から2年に言ったっていいよ。『先輩これは違うんじゃないか』。そういう関係が築けたら、チームや組織は絶対強くなれますよ。それを遠慮してみんなとうまく仲良くやるでは、いずれ壁が来ると思う。それがこの2日間で感じたこと」

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というところ。

まあね。

厳しくできないというのは、もうとっくに気付いていて、スポーツの指導としても、学校の先生としても、厳しくできないことは察していたので、別にイチローさんに教えていただいたわけではないんだけれど、イチローさんからこういうコメントが出てくるということは、もはやこれが常識となったんだなと。

「強くなるために」「成長するために」とか、そういう言葉もつかないぐらい当たり前になったということ。

本当に面倒くさいんですが、変にとられると炎上案件なのでちゃんと書いておきますが、厳しい指導への憧れとか信仰とかノスタルジーなんてない。現場は本当に厳しくて、こういう仕事を生業としていく以上、リスクは排除するしかなくて、現場レベルでは「厳しい指導」なんてやりたいなんて思わない。怒られちゃうかもしれないけど、どこかから「厳しい指導」を求めるような、言い換えるなら容認するような、リクエストなんて平気で出てくる。でも、そんなの信じて、指導を徹底したりしたら、後でハシゴを外されて、厳しい指導に対する批判が出てくるなんて当たり前なので、絶対にしないし、なんならやってるふりをして、指導なんてしない。

今の時代、現場はそんなもの。

だから、イチローさんの言葉によって「気付いた」とか言葉に「反論する」とか、そんなつもりはまったくない。(くどい。)

「ショック」というのは、一番それが許容されてきたスポーツの、その中でも厳しい指導の権化のような高校野球で、しかも、それが選手に向かって、だから「自分たちでやろうね」というところまで、時代は進んだんだ…というようなこと。

まあ、とっくに自分の中では、「教育」や「指導」については、何かをなそうという気はなくなっていて、つまり、「収入を得る」「仕事」となっていて、何かこういうところに連れて行きたいみたいなことはなくなった。

もともと、自分の「こういうところ」っていうのは、「自立」であって、「自分で学べる生徒」で、「学び続ける生徒」で、だから「学び方を教える」…というようなところを折り合いをつけてやってきたわけだけど、そこには最後に「…生徒を育てる」とか「…を教える」というようなものがついていて、今や、その最後の部分に、「生徒がそれを望むなら」という注釈をつけてきているので、そういう意味のショックではない。

もっというなら、自分が先行してそういていると思っていたら、実は世の中それが当たり前だった、みたいなショックなので、なんなら「どれだけうぬぼれてるんだ」みたいな話ではある。

でも、自分としては、世の中がそうだとするなら、もっともっと戒めてもっともっと教育や指導から遠ざかる必要がある。

これは、ある意味で恐ろしい話で、特に公的なものがどんどんこうなってくるということ。つまり、親が求めたところで、そんなものは一切ない。

あるとするなら、それはどこか別の場所で与えなければいけない。それだって、この常識の範疇だろうから、みんなと同じように胡座をかいていたら、何もやってこない。

つまり、親が自分の子どもを、「自ら学ぶ子ども」にした上で、なんらかの教育機関、塾であるとか習い事であるとかに送り出すことを意味する。

そこで学ぶんじゃなくて、学んでから塾に行く。

要するに、家庭が問われ、環境が問われる。

個人の時代がやってきて、格差の時代がやってきたんだなと実感する。

「おしいれのぼうけん」と時代の変化

「おしいれのぼうけん」という童話を知っているだろうか。調べてみると、1974年に発表されたふるたたるひの名作だ。

保育園が舞台で、昼寝とかの時に大騒ぎをすると、罰としておしいれに閉じ込められ、そこで、こどもは「ねずみばあさん」と出会う。保育園の先生たちも、こどもたちが「ごめんなさい」というのを待っているけど、なかなかいわなくて…

というようなお話。

人形劇の中のねずみばあさんに、実際におしいれの中で出会って…というようなものが話の軸で、このねずみばあさんのキャラクターが立っていて、グッズができてしまうような、有名な作品ということになる。

で、なんでこんな話を書くかと言えば、不適切保育とかが話題になったから。

閉じ込めたり、怒鳴ったり、殴ったり。門扉が開いていて、コンビニで保護された…なんていう話題もあったし。

いずれも「不適切」であることは間違いない。

別に、「不適切だけど許せ」とか、「不適切なことでも教育には必要だ」とか、そんなことを書きたいわけではない。

もはや、ちょっとそんなことを書いた瞬間に炎上する時代は確実にやってきていて、「不適切」なものは不適切として認めるしかないし、起こさないように気をつけるしかないし、起こしたとすれば非を認めるしかない。

保育園とか学校とかという教育の現場において、あるいは親と子というような家庭環境において、はたまた習い事のような塾やスポーツなどの現場において、人と人が接する以上、残念ながら「不適切」な指導が起こることはある。必ず起こるのだから仕方ない、というようなことを言うつもりはない。起こることは仕方がないにしても、不適切であるなら起こさないように、起きないようにしていくしかないからだ。

まして、現代において、「起きても仕方がない」などという言説はそれ自体が批判対象であるわけだから、決してそんなことを書くつもりはない。

しかし、「おしいれのぼうけん」は、多くの場合「名作」として認められていて、おそらくきっと最近までそう思われていたはずだ。

もちろん、「おしいれのぼうけん」では先生が「ごめんなさい」と言わなくて、出したいのに出せなくて胸を痛めるシーンがあるとはいえ、そんなことで擁護できるのなら、きっと今問題になっている様々な不適切な指導にも「教育」という、先生の側の事情が持ち出されてしかるべきはずだ。

もう一度書く。

擁護するつもりはまったくないので、つまり、どんな理由であっても不適切な指導はいけない、というのが現代で、だからこそ、「おしいれのぼうけん」の指導は不適切な指導にほかならない。擁護できないのだ。少なくとも現代においては。

逆に言えば、それが擁護されていたり、あるいはもっと踏み込むと認められたりしていた時代が、少なくとも1974年当時にはあって、それが名作として認められてきた経緯を考えれば、つい最近までそういう教育観が支配されていたはずだ。

でも、現代は違う。

下手をすれば、その行為だけで、テレビのニュースに取り上げられ、謝罪会見の様子が流れたり、被害を受けた子どもの保護者のインタビューが流れたりするのだろう。

特に何を書きたいわけでもない。

ただ時代は変わったのだ。

この間も、廃案になったけれど、さいたまで、子どもをひとりにしちゃいけない、子どもをひとりで歩かせない、遊ばせない、という条例が可決されそうになった。

ぼくらの時代は「鍵っ子」なんて言葉もあったし、習い事に1人で行くことも普通だったけれど、それが「虐待」と紙一重のところまで、時代はやってきたようだ。

正直、この条例が廃案になったのだって、「そんなこと言われたら「親」は仕事なんてできない。ずっと子どもについていないといけない」という、親側の理由であって、決して、子ども目線の理由ではない。

「そんなことができればいいだろうけど、そんなことをしたら親が「個人」として、「私」として生きることができないから、行政が制度を作ってくれるならともかく、今のままなら無理です」

ということでしかないのだ。

結局は、大人の都合で、ある種の責任を行政的な機関に託して、その中で起こるさまざまな問題をある意味ではおしつけるわけだ。

怪我もするだろうし、病気にもなるだろうし、誤飲もするかもしれないし、ケンカもするかもしれないし。

いやそれどころじゃない。親や祖父母が子どもを車に置き去りにしたとしても、保育園に来ていないことに気づかない制度や機関の責任になってしまうのだから。

まあ、仕方がない。確かに気づけば防げたかもしれないのだから。

今や、家庭の問題でさえ、条例が入り込んでコントロールしなければいけない。そうしなければ責任が問われてしまう。

保育園の門扉があいていて、子どもが抜け出して、コンビニで保護される。保育園は通報を受けるまで、その子どもがいないことに気づかない。

もちろん、問題だし、管理が問われるのは当たり前。気づかなかった、では済まされない。それは当然。

でも、本当は子どもの問題でもあるはずで、もちろん言ったって聞かないんだよ、小さいころは…というのは大前提として、それでも何度も言い聞かせて僕らは大人になっていく。

少しずつ、僕らはそうした機会を失っていく。そもそもそうならないように、僕らは誰かの責任において管理されるわけだから。

かくして、僕らは「おしいれのぼうけん」なんてできるはずもなくなっていく。まあ、コンプライアンスにひっかかって、また発禁になったりするのかもしれないから、「おしいれのぼうけん」なんてしようとさえ思わないかもしれないけれど。

不適切な指導を容認せよ、なんてことではなくて、ただ、ちょっと悲しいというか、時代は変わったんだなと思う。

で、こっちはちょっと腹立たしいのは、ついこの間までみんなが許容していたことを、なんだか自分だけは「昔から問題だと思っていました」みたいな顔で発言すること。まあ、「昔は問題ではなかったんですけど、時代ですからね」なんて書いたら結局炎上しかねないから、仕方ないかもしれないけれど。

罪の認識と同調圧力

なんとなく、あの問題について書き残しておきたい。

 

行われたことは間違いなく犯罪であるので、行われたことが確かであるとするなら、まず、ここに何かをさしはさむ余地はない。もちろん、それが確かに行われたことであるのかどうか疑義をはさむ人もいるだろうし、これから出てくる被害者が全員確かに被害者かということはなんらかの確認が必要なのかもしれないけれど、現時点において、ただ報道を見聞きしている僕らからすれば、「確からしい」ことは間違いなさそうで、だとするとそれは「いつの時点においても」「犯罪」であり、それ以上でも、それ以下でもない。

 

しかし、新しく社長などという責務を背負っていた人に、「それを知っていたのか」「なぜ確かめなかったのか」「行動を起こさなかったのか」などと責任を追及する様子を見ていくとなかなか難しいものを感じはじめる。

 

もちろん、その当時において経営に責任のある人は別だ。犯罪の可能性があることを見聞きしているとするならば、そこに責任は生じるわけで、そこを追及することは当然のことだ。

 

しかし、そうでない場合はどうなのだろうか?

ふと考えてしまう。

もちろん、ある種の「悪」を確実に把握したとするなら、善意の第三者であってもある種の責任は生じるだろう。たまたま犯罪を見かけてしまった時、それが「確か」であると自覚したなら、「見ないふり」には責任を生じる。

しかし、「噂」であるとするなら?

「確か」だと確証が持てないとするなら?

それはどうなのだろうか。

もちろん、道義的にそこを確認して追及しなかった責任はあるのかもしれない。でも、この問題の場合、おそらくきっとそのことを「みんな」知っていたのだと思う。

それこそ、芸能の世界と何の関わりを持たない一般人の大学生だった私ぐらいでさえ、その「噂」は確からしい噂として把握していたわけだから、メディアの世界の人とか、芸能の世界の人とかそういう人たちが知らないはずはない。

でも、確かだという確証がない限り、あらぬ噂や根拠のないゴシップである可能性があるとすれば、動かないのは当たり前。

根拠のない噂で大騒ぎをすれば、それこそフェイクニュースを広める輩と大差はないわけで、「確からしい」としても「確かではないのだから」と言い聞かせて、僕らは貝になっていくわけだ。

まして相手が権力であるとするなら。

そういう構造の中でみんなが貝になって、見ないことにして、黙ってきたわけだ。

で、こうして発覚すると、メディアの人が新しい社長などの責任を持つ人に追及をはじめていく。

しかし、過去においてあなたはどうだったのか?そう矛先を向けられて、はっきりと「私は戦ってきました。訴えてきました。」と胸をはれる人はほとんどいないに違いない。

そういう状況において、「知っていたのか」「行動しなかったのか」と詰め寄ることははたして正しいのか?

結局は、みんなが黙っている時は沈黙し、みんなが声をあげたからその流れに乗って自分を正当化しているだけにすぎないのだ。

僕らは過去を忘れる。

得たいのしれない雰囲気は、まさにみんなで作りあげたもので、もちろん自分だって他者からすれば「みんな」の一員に過ぎないのだけれど、僕らは「みんな」の圧力によって、自分が正しくない選択を強いられた、と解釈する。

だからこそ、本来、その当時責任をとれた人、行動を起こせた人、つまり「みんな」の中でも責任の重い人を必要としているわけで、そういう責任を誰かに押しつけながら、「あなたが行動しないから、みんながこうなったんですよね?」とでも言いたげに質問をしていく。

でも、その追及されている人だって過去においては、みんなの一員に過ぎず、責任を持っていたわけではない。今、責任を持っているだけで、当時はなかったし、あるとすれば、みんな、つまり、あなたと同じ程度の責任のはずなのだ。

メディアは、そしてそれを受け取る僕らもその責任には触れない。触れたとしても、「もっとなんとかできる誰かがいたんじゃないのか」という形でしか触れない。

でも、メディアは本来、その「みんな」を形成するそのものであって、むしろ責任しかないはずなのに。

 

とはいえ、この問題、このテーマの難しいところは、次の点にもある。

なぜ、当時追及できなかったかといえば、見過ごしてきた責任による罪悪感もあるだろうからだ。

僕らはなんとなく知っていたのに、「確からしいけど、確かであるという確証はないから黙る」という選択をした。その責任、その罪悪感は、追及の矛先を鈍らせる。

黙ってしまった自分。だから責められない。一度黙ってしまうと、みんな同罪だよねとばかりに、黙らせる同調圧力が働く。

そして、今までこうなったわけだ。

二度と起こさないためには、追及は欠かせない。

しかし、良識があって、罪悪感をもつメディアの人は、きっと追及の矛先を他人に向けきれないのだろうと思う。

それでもなぜ、こうなったのかを自らも含めて明らかにしていかないといけないのだと思う。

結局は、ある種の同調圧力の問題で、その仕組みをどう暴くかという話でもある。

そして、過去の問題を現在の自分からだけ考えず、過去の自分のありようを正確に読み解こうとする作業でもある。

でも、そんな面倒なことをするメリットは多くの人にはないから、とりあえず自分よりももっと責任のある人を見つけて、そのせいにしていく。

同調圧力というのは、結局は責任の問題で、自分の責任から目を背けようとする仕組みなのだろうなと思う。

教育の崩壊

教育の崩壊なんてタイトルをつけたがたいした話ではない。

教育実習生が少ないなあ、なんて思っていたら、どうも自分の周りだけの話ではないらしい。いたるところで、実習生自体が減っていて、昨日、公立の先生と話したら、そこそこの大学の学生が特に減っていると。

というわけで、学校の先生がなり手が少なくなって、先生が不足する。

「そうなると教育が崩壊するってことですね」と頷いてくれるかもしれないけれど、そう簡単に崩壊はしない。今のところ、突然先生がやめたりすると代わりが見つからない感じの「困ったなあ」はあるけれど、採用試験の倍率はまだ一倍を切るようなことはなく、つまりもうしばらくの間、なり手はいるということだ。

教員がブラックだ、というのはある意味で間違いない。

でも、これを自由市場の社会と捉えてみた場合、それでもいわゆる派遣とかバイトとかとは違うし、ある一定の給与が保証されるわけで、社会の行き詰まり感と比べれば、どんなにブラックでも、それでも職を求める人は出るだろうし、そう簡単に崩壊しない。

もちろん、この発言は、教員のブラックな環境を肯定しているものではない。市場としてとらえるなら、大変であっても一定の給与があれば人は集まる。人気は出ないかもしれないけれど、人が足らなくなるかと言われれば、きっとみんな妥協して教職につくこともある。ただ、それだけの話。人が集まるから改善しなくてよいなんて、微塵も思っていない。

じゃあ、なんで崩壊って話になるのかというと、結局、教職というものが「市場」に出されて他職種と競争して天秤にかけられているということだから。

もちろん、私立の学校もあるから、学校が競争とか市場とかと無縁であることはありえないのだけれど、教育全般については「公」のものであって、みなに行き届かないといけない。

でも、そこに市場が入り込んでサービスとして成立するとそうはいかなくなる。

生徒や保護者は、教育をサービスとしてとらえて、何かしらの形をほしがる。本来サービスとは、何かしらの費用の対価として提供されるものだけれど、この場合は曖昧。でも、「払ってないから」ではなく、「税金はらってるんだから」という曖昧な意識の中で、無限の対価を求められる。

サービスを提供する側からすれば、要はもらっている給料に対して業務はどうか、という問題になる。現実問題として、公立の先生からすると、毎日12時間ぐらいは軽く働かされつつ、しかも新人とかあるいは再雇用とかだとせいぜい月給で手取り20万を越えたぐらいだろうから、時給換算ではたぶん1000円ぐらい。

となると、そこらのアルバイトと変わらないから、他に割のいい仕事があればいくらでも辞められる。

サービスを求める側は、無限にサービスを求めるのに、提供する側にそれに対するペイが支払われていない、待遇が伴っていない、ということになると、自由市場において、労働者がいなくなるのは当たり前の話だ。

では、今まで何でやってこれたかというと、それはサービスではなかったから。つまり、「公」が提供するものであり、それはいただけるありがたいものであり、それを指導してくれる先生には感謝をするものだったから。

先生そのものが尊敬や感謝の対象であり、おそらく宗教とか医療とかと同じ領域にあったはずで、でも、そういうものが崩壊して、ありとあらゆるものが、サービスという形に変化している。医療もきっと大変だろう。

だから、学校は崩壊しないけれど、教育は崩壊する。

尊敬や感謝が必要なわけではないけれど、それがなくて当然のワードになれば、逆にボランティア的な、自己犠牲的な、「尽くす」行為がなくなる。時間が終われば、要求されたことをすれば、それでよいわけだ。

だから、実は大きな問題になっているのは、教員が不足していることでしかない。こういうサービスと化した教育において、教員の質とか内容はどうでもいいのだ。

資格のある人がサービスを提供できるか否か。

だから、議論からすると、資格のある人を増やせばいい。定年遅くしたり、免許を持っていない人が教えられるようにしたり。

そして、誰にでも同じ質の教育が提供できるように、サービスはマニュアル化されることが望まれる。でも、そうなった瞬間にマニュアルに書いてあること以外を提供する必要はない。コンビニやファーストフード店に、余計な雑談的接客は必要ないのだから。

しかも厄介なことに、客はサービスで学校を選んだりしないので、公教育においては、マニュアルの内容とか、それ以外の付加価値なんていうものは議論にならない。ひたすら、問題とされるのは、誰にでも提供できるサービスのマニュアルであり、それを遂行する教員が、いかに楽に仕事をできるかという、人材確保の競争にしかならない。

おそらくそうなった先には、放課後の塾であるとか、私立としての学校選びとか、結局はお金とサービスがリンクする本当の、自由競争の場に教育が移行してゆく姿があるのだと思う。

残念ながら、すでに学校内においても、職人のように築き上げたノウハウを共有するシステムも失われつつある。教員間も、業務でサービスだから、そんな伝承は、仕事に入っていないし、それを伝承とするのは時間外であるなら、伝承される側がそもそも断るような状況になるし、ましてそれが「うるさいベテラン教員のおしつけ」と取られるリスクがあるなら、伝承する側も時間外にそんなリスクをおかす必要がないのだ。

でも、教育実習生がいないというのは、それでも驚き。しかも圧倒的な速度でそれが進んでいる。部活動の地域移行なんて、何年かかるやら…と思っていたけれど、案外数年のうちに限界を迎えて、学校が放り投げるような気もする。

代償の話 その2

この間、テレビを見ていたら、スーパーで売っているサラダにカエルがはいっていたとかで騒いでいた。

まあ、確かにサラダにカエルが入っていたら気持ち悪いし、びっくりしてしまうけれど、だからといって、テレビで大騒ぎするほどのことかどうかはよく考えたほうがいい。

もちろん、工場が不衛生で、その不衛生な環境からさまざまな生物が食品に混入する確率があるとしたら大問題で、たとえば、工場の中に大量のカエルやら何やらが生息していて、それがちょっとしたことで混入する環境なら大問題であることは間違いないけれど、誰がどう聞いたって、「それって野菜にくっついてたんですよね?」みたいなことに違いない。

もちろん、それにしたって、気持ち悪いに違いないし、ちゃんと排除しなくちゃいけないんだけど、こういうのを果たして「システムの問題」とか「洗浄過程の見直し」みたいなことで語っていいのかどうか。

当たり前だけれど、そういうミスのないシステムを作ればコストがかかる。人手を増やすにしても、機械を導入するにしても。

つまり、ある程度ミスが起こるとしてもコストを抑えていくべきなのか、完璧なチェックをするためにコストが上昇し、高い食品を購入することになるのかは、僕たち騒ぐ消費者による。

もちろん、それに高いコストがかかるとしても命が関わってくる問題になるとまた難しくて、ミスを起こしてしまえば命が失われる…となると、もうひとつ別の判断も必要になる。

強風で脱線事故を起こしたJRの時がそう。風速40Mとかって予見ができないような突風が吹いて事故が起こる。そういう風を感知して自動で止めるシステムがあるらしいけれど、めったに吹かないそういう風のために、いたるところにつけるのかっていうのは議論になる。

まあ、当然つけられないわけで、だからそれ以降、一定の風が吹くと、鉄道は運行をやめることが多くなった。そういうリスクのある場所ではシステムがない以上、走らせられないわけだ。

それに比べると、サラダのカエルはだいぶかわいらしい。

なんとでもできそうな気がするが、それでも「代償」について考えてしまう。

まあ、そんなことを言ったところで、時間が経てば大部分の人は忘れ去ってくれるだろうからいいのかもしれないけれど、きっと炎上していたころの当事者は、大変だったろうなあと思う。

自分の子どものころの思い出に、部活帰りのスーパーで、値引きされたドーナツやらシュークリームやらを買って、食べたという記憶がある。

今の子どもたちは、平気でスタバ行って、なんちゃらフラペチーノを飲んだりしてるけど、僕らにとって缶ジュースでさえ飲めなかった。50円のアイスか、30円のお菓子か。でも腹の減った男子からすれば、同じような値段で置いてあるシュークリームやらドーナツがあれば、とびついて買ってしまう。

時代なんだと思うけれど、それは当然賞味期限が「切れて」いて、そのリスクを承知でぼくらは買った。

シュークリームを食べると舌にとげがささるような痛みがして、ふと見ると安いカスタードクリームが、高級な生クリームとカスタードクリームの二層のやつみたいに、白いカビが生えていた。

それでもぼくらは「負けた…」とかいいながら、店にクレームを入れることもなく、値段相応のリスクを改めて認識する。半額どころではなく、本来100円ぐらいするものを20円ぐらいで手に入れようとした自分のあさましさを反省したものだ。

そして、賞味期限をすぎたクリームは危険だということを学び、ドーナツに手を出し、砂糖がレモンに似たすっぱさになることを知ってまた、あらたな危険を学んでいく。

要するにおおらかだったのだ。

それがいいわけではない。だってくさってるのを売るのはやっぱり問題だから。

でも、今だったら、どんなに安い値段で手に入れても際限なくクレームを入れて、きっと、そのコストのしわ寄せがどこかにいって、めぐりめぐってこの賃金の上がらない世の中を作っていると思うと、いたたまれなくなる。

僕らはある程度のリスクを許容して、だからといって、カエルが入ったサラダ食べろと言ってるんじゃなく、持ってって代わりのものもらって、頭下げられて、もしかして無料にしてもらったりとかあるいはおわびに何かちょこっとつけてもらったら、ラッキーと思えばいい、というそういう話だ。

「代償」はふさわしいものでなければ。

にもかかわらず、代償を求めていると、サラダの値段は高くなる。

でも、高くなると人々は買わない。みんなが一斉に高くすればいいけれど、消費社会はそうはいかないので、「カエルが入るなんてめったにないから、リスク対策しなくていいや。その分安くしとこう。」という業者が抜け駆けして、結局それが売れる。

もちろん、消費者が厳しくて代償を求めるとそういう業者は、問題を起こした後、淘汰されるわけだけれど、それを見ていた他の業者は、リスク管理をしながら安い値段で売りたくなる。新しい機械は高いし、人を増やすとコストに影響するから、今の人員で、今の機械のまま、作業を増やす。給料あげるとコストに影響するから、それもしない。

かくして、給料は上がらないけれど仕事が増え、で、だからこそ、安くて安全なサラダを食べたくなるわけだけれど、結局、本質的にはどっちも自分たち自身の問題であることを認識しないとまずいよねって話。