炎上と代償

もうここしばらくの話だけれど、ネット上には「炎上」というものがある。

なにかしら、よくないことをしてしまったことによって、「炎上」が起こる。それは行為であったり、発言であったり、犯罪であったり、モラルとして許されなかったり、さまざまなのだけれど、なんらかのきっかけでインフルエンサーやメディアに取り上げられ、拡散すると、一気に関係のない人や、直接被害を受けていない人や、それどころか実際に見たわけでもなく聞いたわけでもなく、また聞きのような形で、メディアにとりあげられた文面や内容で、怒りをぶつけたりということが起こってくる。

もちろん、まったくの捏造でないかぎり、そもそも「炎上」した人に問題があることは間違いないわけだから、その周りで文句を言っている人に何かいったとしても、「加害者をかばうな」とばかりに、「そもそも…」と「炎上」した人の問題点を指摘するという構造が続く。

ネット社会というのは、まさにこういうことで、「正義」が自分にあれば叩くことができる。いや、正確な言い方ではないな。「悪」がそこにある以上、自分は正義でいられる。正義の立場から発言し、正しい人間になることができる。むしろ、発言をして、叩くからこそ、正義になるのであって、もし叩かないとするなら、自分の正義が揺らぐとさえ、言えるのかもしれない。

しかしながら、失敗やミスをしない人はいないし、誰だっておおかれ少なかれ怒られてきたはずだ。そういうことを繰り返しながら、大怪我をしないような「加減」というようなものを学んでいく。いや、もしかしたら、限度を越えたから怒られたわけで、加減なんて学んでいないのかもしれない。しかし、たとえばそれが学校なんていう、ちょっと閉じられた特殊な世界で起こることによって、本当は大失敗で取り返しがつかないけれど、まあ、なんとかちょっとした失敗ということにされて、なんとか今を生きているのかもしれない。

というわけで、ネット社会の現代において、特に子どものちょっとした失敗は、あっという間に、社会全体で共有され、叩かれることになった。ネットの書き込みや動画であれば、「ネットの使い方を…」「リテラシー教育を…」というような形でしのげるのかもしれないけれど、実際にはネットの世界で起こっていない出来事であっても、どこかに記録され、それが掘り起こされて、ネットの世界で炎上するわけだから、もはや、炎上するかしないかは、それが記録されたかどうか、あるいはどこかでネットにあがったかどうか、そして、それが叩いてよい対象としてみんなに共有されたかどうかに尽きる。

運のようなものだ。

もちろん、毎日炎上が起こるわけではないから、依然として子どもたちの多くの失敗は、今までと同じように誰にも知られることなく、流れていくものがほとんどだ。でも、あるきっかけで、炎上してしまえば、それは取り返しのつかない事態となり、「そこまで書かなくても…」なんて書けば「いや、結局は自分がもともとしたことで…」とぐるぐるまわりはじめる。

要は「代償」の問題。

それはいけないことであったとしても、日本全国で共有され、みなから批判されるようなことなのかどうか。もちろん、話題としては皆が批判するに違いない。間違ったことなのだから。しかし、だからといって、それが日本全国から一斉に批判されることなのか、といえば、私は必ずしもそうではないと思うわけだ。どこでも普通に起こることであるなら。もちろん、ここで書く普通とかどこでもとかは、「それは普通にどこでも起こるからたいしたことではない」などと書いたつもりはない。だから、たいしたことのないことであったとしても、許されない罪であることもあるだろう。だから、みんながそれを「許せない」と思うのも間違いではない。そうではなくて、「みんながいつまでも許せない」なんて声をあげて、本人に届く形にする必要があるのか、ということだ。

現代において、朝のニュースのトップで、万引きや危険な自転車の運転がとりあげられる時代。それがたいしたことでない、と言っているのではない。それが、全国のニュースでトップで取り上げられ、まだそれがモザイクがかかっているからいいけれど、炎上という形でモザイクがはずれ、さらされるようなことなのか、ということだ。

常にこういう危険が、普通の生活の中にあるのだ。

今や、教員として、こどもたちの行動が、炎上につながらないことを祈るしかない。一端、炎上してしまえば、なんとかしてあげようという行為さえ、「そんな子どもを守るのか、隠すのか」となりかねないのだから。

春がいつかというのは難しい。

暦の上では2月になれば十分春だけれど、なかなかそうも言えない。季節として、花が咲いたり、暖かくなったりという節目も当然あるけれど、日本においてはやはり3月が終わって4月になるという、その年度替わりが「春」のような気がする。

冬が終わって、春がきて、また1年がめぐる。

当たり前のように繰り返される年の移り変わりだけれど、そこには決定的な断絶があって、入れ替わりがある。

死の後に生がやってくる、その不気味さ。

終わらなければ、始まらないし、終わらないものはないのだけれど、突然、何かがぶつりときれて、新しいものが始まる。

学年が変わって、新しいクラスになったり。

誰かが辞めて、新しい人が入ってきたり。

まあ、ともかくもさまざまな変化が春に起こる。

もちろん、ちょっと新鮮であったり、ちょっと緊張したり、ちょっと楽しみであったり、ちょっと不安であったり、様々な感情がそれぞれの人の中に渦巻いているのだろうと思うけれど、残念なことにあっという間にそれが日常と化していく。

それが日常となるのにどれぐらいの時間がかかるのかわからないけれど、ただひたすらに僕らはそれを日常とすべく生きている。

どこであれ、僕らは日常を形作り、いつかはその日常から離れる。らせん階段のように、ぐるぐると回りながら同じ事を繰り返しているように感じるけれど、この冬から春の間には必ず断絶があって、そこをぼくらはひょいと飛び越える。

本当はものすごい断絶があるのに、多くの場合、歩いている歩幅と変わらないぐらいで、何気なく、ひょいと飛び越える。

それなりに思いを込めて、その断絶を飛び越えても、あっという間にそれは日常の歩幅と変わらなくなる。

いい意味でも、悪い意味でも。

失われるものが大切なものであるように感じても、では、それが大切なものとして向き合ってきたかというと話は別だ。

特別なもののように新しい場所が用意されていても、そこに特別なものとして敬意を持って向き合うかといえばそれもまた話は別だ。

それがいい意味でも悪い意味でも、日常になるということだと思う。

日常にならなければ、それはそれで大変だ。でも、日常になればある種の敬意は失われていく。当たり前だ。毎日、顔を合わせるありとあらゆるものに緊張や敬意を持って接するわけにはいかない。疲れてしまう。

とはいえ、そういう当たり前の日常が続くことの尊さを本来は感じながら生きていきたいと思うわけだけれど、実際にそういうわけにはいかない。

だから、こういう断絶がある春のときぐらい、失われたものに対する敬意を心のどこかに持ちたいと思ったりする。

monogatary.com

自分らしさと孤独

ネットにわざわざ馬鹿なことをやって、そして炎上する、という出来事はずっと続いている。

承認欲求といえばそれまでだけど、そもそも承認欲求がないなんてことはありえないし、それは満たされていないから爆発するか、あるいは承認されていることに気付かないから爆発するだけで、少なくとも爆発していないからといって自分は承認欲求なんてないなんて思うのは間違いだ。炎上している人が承認欲求モンスターなのではなく、あなたが恵まれているのにすぎないだけかもしれないから。

ネットにわざわざ馬鹿なことをあげたいのは、バズりたいからというか、見てほしいからであることは間違いない。つまり、逆に言えば、見られていないという感覚があるから、もっとやらなくちゃいけなくなる。

いいねがなかったり、コメントがなかったり、アクセスがなかったり。

だから、あの手、この手で見られたいと思うわけだ。もちろん、ブログかなんか書いてアクセス解析かなんかしてしまえば、本当に読まれていないことに気付くかもしれないけれど、いわゆるSNS系のものの場合、いいねがなかったり、コメントがないからといって読まれていないとは限らない。でも、反応がなければ見られていないような気がするし、そもそもインフルエンサー的な人と比べれば圧倒的に読まれていないわけで、だから、もっとおもしろいことをやらなくちゃいけないし、仮にちょっと過激なことをやったとしても、そもそも近い人しか見ていないわけだから大丈夫なわけだ。

ここがそもそもの矛盾ではある。

もっと見られたいから、もっと反応がほしいから、ついついやり過ぎちゃうわけだけど、仲間うちしか見てないわけだから大丈夫。実際、今までだって誰も見なかったし。みたいな矛盾した感覚。

というわけで、今や誰でもどこでも炎上できる。

そもそもネットの世界や、SNSの世界に居場所を求めるというのは、リアルの世界からの脱却という側面がある。リアルの世界に友達がいないとか、おもしろみがないとかそんなことではなく、ただ、自分の別の可能性というか、現状から脱却して、どこかにジャンプしていきたいようなイメージ。そこには、そこはかとなく、リアルの世界で回りに合わせることに疲れ、決められた役割を演じることに疲れて、ジャンプしてどこかに行きたいような衝動があるんじゃないかと思う。

でも、結局、そこには同じような社会があって、他人からの反応がなくちゃやっていけない。いいねをもらって、コメントをもらいたい。それがなければ、なんだか無視されているような気がする。

ネットの世界は気楽なような気がしてみんながやってくる。決められた役割とか、ポジションとか、決めつけとか、そういう自分をしばりつけるものが、不特定多数の他者という環境の中では比較的流動的になって、もっと自由に演じられるし、変更できるから。

でも、実際はネットの社会では、なんらかのデータ、写真であったり、コメントであったり、いいねであったり、動画であったり、そういう何かがなければいないのと同じで、そこに反応がなければ無視されたも同然だ。

リアルの世界では、何にもしなくても、何も発言しなくても、それなりに存在感を示してそこにいることができるし、何も発言しなくても、退屈や共感や興味や嫌悪を相手に伝えることもできる。

でも、ネットの世界では、なんらかのデータとして与え、与えられないと存在しないのと一緒。

かくして、ひたすらネットにデータをあげ、なんらかの反応を引き出したいという欲求がその行動を作り上げる。

誰にも見られていないから多少踏み越えても仲間うちだから大丈夫で、ちょっと踏み越えない限り、その仲間うちが広がることはない。

いつどこで誰が炎上するかは、運というか、タイミングというか、そんなことではないかと思う。

それでも、そうやって同じようなことが続くのは要は人間が孤独であるからだということだと思う。

人間はそもそも孤独だ、ということではない。

たぶん、人間はそもそも孤独にはなれなくて、常に関係の中にいる。でも、僕らはそこに嫌気がさして、そこから抜け出して、みんなとは違う何かを得ようと思う。

でも、そのためにはやっぱり誰かに認めてもらわなくちゃいけなくて、ネットの世界の中でひたすら反応を求める。

いうなれば、人間は結局孤独にはなれないし、関係の中から逃れられないのに、そういう関係を否定して、ひたすら一人になろうとする。みんなから決めつけられた自分じゃなくて、自分が決めた自分になりたい。でも、そのためにはみんなにそう認めてもらわないといけない。

原理的にかなり無理なことをしているから、結局、認めてもらえないという孤独のうちにいる人が大半になる。

それにしても、こういう炎上が子どもに起こっているのを見ると本当に辛くなる。

だって、誰しもそういう葛藤の中でやりすぎたりすることは経験して大人になるわけで、それなのにその舞台がネットとなる現代では、とりかえしのつかない傷になる。

僕らのころは先生や親にこっぴどく叱られて、下手すれば何でどう怒られたかなんて覚えてさえいないのに、今や、日本中で共有されて傷として残る。

もちろん、企業に与えた損害とかもあるわけだから、何もないというわけにはいかないかもしれない。それでも、たとえば補導されたりすることと、テレビやネットに自分の話題が出続けることはレベルが違う。

そして、それを教育できなかった学校や親の責任も問われるんだろう。この果てしない、傷のえぐりかた。

そうなるかならないかは、きっと運でしかないのだろうと思う。

人間関係は面倒だけれど、そうはいってもその中でなんとかやっていけるように関係を作っていくことを大人としてやるしかないんだろうなと思ったり。でも、その関係の有り様、みんながのぞむ関係が変わっている以上、きっと新たな関係をどこかで作っていくしかないんだろうなとも思う。

3.11

3月11日に書くとちょっと重そうだから、ずらして。

たぶん自分が生きてきた中で、決定的に世界が変わる経験というのは、9.11のテロ、3.11の東日本大震災、そして今回のコロナだと思う。

なんだか世界が変わってしまうんじゃないか、この日常が途絶えるんじゃないかっていう衝撃はこの3つだと思う。

阪神大震災とか中越が入っていないのは、僕が首都圏に住んでいるからで、決して軽視しているわけではなく、要はそれでもひどいのかもしれないけれど、ある種のリアリティがなかっただけだ。本当に近くで起きれば、交通事故だって、火事だって、強盗だって、世界が変わってしまうような大きな出来事で、僕の場合は、この3つだったということ。

そして、共通していえるのは、喉元を過ぎてしまえば、本当に何もなかったかのように毎日は過ぎてゆく。あの時は、そんな日が来るなんて想像もできなかったけれど。

忘れることは重要で、そんな重たいものを背負って生きていくわけにはいかないし、重い物を背負うと下手すれば「笑っちゃいけない」ぐらいの悲壮感まで背負う羽目になるから、忘れるべきなんだとは思う。

でも、なかったことのように過ごすわけにはいかないし、あの時に感じたことや思ったことを忘れるわけにもいかない。

人は大体勝手だから、そういう大きな出来事の現場に立てば、ヒステリックなまでに大騒ぎをする。あの当時であれば「安全・安心」みたいなことで、放射能のホットスポットと騒ぎ立てられた地域に住んでいる僕は、たとえば、子どもの安全のために外に出すのはやめてほしい、放射能が危険だからプールの屋根を閉めてほしい、なんてことを平気で、いやそう騒ぎ立てる人は自分こそが正義で正論で安全を唱えていると言っていたことを忘れない。でも当人たちは、きっと自分がそんなヒステリックに騒いだことなんてきっとみじんも覚えていないか、あるいはそれはそれで正しかった、なんて正当化するのに違いないだろう。

僕の場合は、その程度のことだからいいけれど、農作物とか、水産物とか、そのあたりの風評被害なんて目も当てられなかったに違いない。

でも、きっと今になってしまえば、そうやって騒ぎ立てた自分なんて覚えていないし、ずっと自分はまともだったと思うに違いない。

コロナも同じようなもので、マスクが外せるようになったらみんなうれしいはずだし、マスクをしなくていいんじゃないか的言説をしだすけれども、そういう人たちだってヒステリックな感染対策をとなえていたことはたぶんきっと忘れ去られるんだろうと思う。

話を戻そう。

日常は続いていくだけで奇跡で、その日常が尊いということをあの日、僕は痛感した。

電力が不安定になり、計画停電が起こって、ガソリンが手に入らなくなる。電車も動かなくなって、学校も休校になった。

地震のあった数日の話じゃない。地震がおさまった後の首都圏で起こったことだ。

それでも、本当の意味で被災したところに比べれば格段マシ。

もちろん近所には液状化だとか家の被害とかもあったし、道に亀裂が入ったりしたけど、電気が止まり、電車が動かず、車も動かせず、しばらく家にいるとはいえ、ずっとまともだった。

それでさえ、日常の尊さを思う。そして、もっと深刻に日常を奪われた、津波によってすべてを流された子どもの、そういう話には涙が止まらなかった。

だから、まだ日常が手にある自分の環境の、尊さを実感したものだ。

いやなもので、それでも新高校3年生を担任していた僕は、それでも仕事をしなければいけなかった。

ネットは普及していたけれど、スマホを持っている時代じゃないから、ホームページに課題とか、自習できるプリントとかをあげて、それで毎日、生徒に電話をかけて状況を聞いた。

ただでさえ、日常が失われている時に、日常を維持せよ、つまり勉強をするんだ、という電話。

まじめな生徒にとっては、日常が失われた人たちをテレビの中に見ながら、日常を続けることに罪悪感を覚えていく。

でも、と思う。

目の前に倒れている人がいるのを見捨てているわけじゃない。何か他人のためにできることがあるのに、自分のことをするわけじゃない。

僕らにはできることがない。

罪悪感にさいなまれて、日常を放棄しても、他人がそれで救われるわけじゃない。

僕らは、日常が残されている以上、日常を生きるのが義務だ。

なぜ僕らは、今、助けられないのか?

それは、僕らに力がないからだ。医者となって他人を救いたいと思っても、まだその勉強をしていない。災害のない街を作りたくても、まだその勉強をしていない。

だから、あなたは今、他人を救えない自分に歯ぎしりしながら、日常の勉強を続けて、いつかに備えるのだ。いつか力のある人になるために、あなたは学ぶのだ。日常を津波に流されて、学ぶことができずに歯ぎしりしている子どもたちがいるから、学べるチャンスがあるあなたは、学べる時に学ぶのだ。

そんなことを語るしかなかった。

もちろん、そういう危機的な状況に際して、学ぶ意味も問い直されて、どう学ぶか、学ぶとはどういうことかが考えられていくのはいいことだし、意味のない学習が意味あるものになるかもしれないし、こんなことはしてもしょうがないと気づくようなことはあるのかもしれない。

でも、日常の学ぶことの意味、大切さをあの時に考えたような気がする。

あれから12年もの月日が流れ、一回りすると、僕らはあの時のことを忘れる。きっと、コロナによって失われたものも忘れるだろうし、ヒステリックに騒いだことも忘れるのだろう。

でも、こうやって書き留めておいて、いつか誰かがあの時のことを思い出せるとするなら、こういう意味のないブログも意味があるのかもしれない。

「正義」と人

人はそれぞれ自分の世界を生きている。

自分の社会といってもよい。

ここには、面倒な矛盾に満ちたコトバが入っている。「自分」というコトバと「世界」「社会」というコトバ。

つまり、自分らしい、自分独自の、そういうものを常識として求めながら、人と関わる世界や社会を生きているということ。

残念ながら、私たちはありとあらゆるものを人と関わる社会の中で共有しているので、自分の常識や当たり前を、実は他人から受け継ぎながら作っている。コトバや身のこなし、感性さえも。

美しい、おもしろい、おいしい、というようなことさえ、他人とつくりあげている幻想的な概念なのだけれど、残念ながら僕らは、そこから離れて、自分らしい独自の概念を作りあげていると思っている。

というわけで、生きることはストレスがたまる。

どんなに自分らしくあろうとしても、実はその内心で周りの動向やトレンド、行動や考え方を気にしながら、そこに合わせてやっているのだから。

今日からマスクがはずせることになるが、周りを見ながら、落としどころを探っている。必ずしもみんなに合わせる、ということでなく、みんながはずさない中で、はずすという発言を選択する人もいるだろうし、みんながはずすから、あるいはさないから、マスクの必要性を唱える言説も出てくるだろう。

何を言ったところで、数ヶ月もすれば、3月から4月にかけて大騒ぎして、場合によっては声高に議論をしていたことなど忘れて、どこかに落ち着いていく。

コロナの外出とかと同じ。

コロナ当初は大騒ぎして、家から一歩も出ず、学校や外食店やショップが全部休みになるのが常識だったけれど、いつの間にか普通に外食して旅行できるようになっているように、マスクなんてしないところにいつか落ち着く。

それもこれも、僕らが周りの様子をうかがっているからで、かように僕らは社会や世界の中を生きていて、自分を生きているわけではない。

でも、たいていはそんなこと、つまり、本当は自分なんてない、なんてことは認められないから、昔自分が言っていたことなんて忘れて新たに出来た常識の世界を、自分はずっと生きていたように、発言して、認めていく。

厄介なのは、そうなるときに、仮想敵のような存在が必要で、ともかくそういう敵を作ることによって、はじめて自分の正当性を担保する。その正当性さえも、本来社会で共有されて、担保されるわけだから、自分ではなく、社会を生きていることの証明なのだけれど、僕らは周りの人が攻撃対象とする人をうまく見つけて、その人を攻撃しながら、自分の正当性を作りあげている。

まあ、だからいじめをすることと、人気者になることは、実は仕組みとしては同じことかもしれない。

みんなが認めている人をみんなと同じようにたたえることと、世間からたたかれている人を世間と同じようにたたくことは仕組みとしては同じだ。

もちろん、友達作りといじめは違うし、理由なくいじめをしたりすることと、みんなが認識する悪いことを一斉にみんなでたたくことはもちろん違うわけだけれど、起こる背景というか、心理というか、仕組みというものは同じだということ。

まあ、厄介だと思う。

みんなストレスはあるし、はけ口のように、そういうところにたたく人を作って、それで、自分の正義感が担保される。

世の中には、間違いがいっぱいあるのだろうけれど、でも、僕らが目にするものが本当にテレビでとりあげられてみんなにたたかれるべきことかといえば、ちょっと疑問に思う。まあ、こんなことを書いてさえ、起こったことに対する被害の大きさ…とかいう話にもなるし、実際に高額の賠償が必要なケースもあるから注意喚起という意味で報道が必要なケースもあるだろうけれど、それでもたまたまとりあげられたものと、意図的に取り上げられないものもあるわけで、僕らはそういうものにのっかりながら、攻撃していい「人」を見つけて、正当化していく。自分を。正義は自分にあって、なぜ正義かといえば、みんなが攻撃するような対象だから、ということなのだろう。

というわけで、マスクは外す方向なんだけれど、残念なことにうちの学校では、まだしてください、という感じなので、し続けるしかない。

で、いつかしないことが当たり前になってきたら、「している」ことを悪にさっと切り替えて、自分はさも「しなくていいと思っていた」ことになり、「しなければいけない風潮」を悪に切り替える。厄介なのは、たぶんそれは人で決まっているから、最初に「まだしようと言っていた人」が悪になるのではなく、おそらく「攻撃していいと決まった人」が悪になるということ。そういう対象がたまたまいなければ、文科省とか保護者とか他校とか、悪い人はいっぱい作れるわけだ。

ああ、生きるということはかくも面倒だ。

マスクひとつとっても、結局、周りがどう思うか、みんながどう思うかということに流されているだけなのに、「個人の判断」とか言い出しているのも嫌な正義感。

きっとみんな個人の判断を尊重している素晴らしい人たちだって自分を信じているんだろうなと思う。

まあ、自分が碌でもないというのは真実なんだから、それと周りを比べても仕方ないけれど。

 

保育園に入れなかったり、学童にはいれなかったり…

ニュースを見ていたら、保育園に入れない問題は、さらに学童に入れない問題に移っているらしくて、大変だなあと思う。

他人事のような発言になっているのは、たぶん、うちが子育ての力を入れている自治体にいて、とりあえず保育園も学童も問題なく進んでいるからで、実際入れなくなったら大変なことになるんだろうなと思う。

とはいえ、保育園に入れないというのと、学童に入れないというのはだいぶレベルが違うような気がする。

もちろん、小学校1年生の娘を持つ自分からすると、小学校1年生で学童に拒否されたら死活問題。

だいたい帰りも基本的に早いから、保育園からあがったばかりの娘が家で長時間留守番とかできるかとか考えると途方に暮れてしまう。

でも、実際2年生が間近になってみると、結構一人で留守番ができるようになってきて、今度はバスでスイミングクラブに通おうか、なんて話も出てくる。つまり、保育園から上がった直後はかなり心配になってしまうけれど、1年経っていくうちに大丈夫かな…なんて感覚に変わりつつある。

だから、2年生、3年生と進んでいけば、一人で留守番なんていうのはそんなにたいした問題じゃないんじゃないのか、なんて昭和世代の自分は思ってしまう。

僕らのころは鍵っ子なんて言って、一人で留守番は当たり前だった。

とはいえ、これはいくつかの前提があって、まずは「近所」が成立していた。友達とは平気で行き来して遊んでいたし、そこにそれぞれの親の許可なんて必要なかった。そもそも、同じ年の子どもがいない「近所」のおじさんおばさんも知っていたし、つまり、その近所で遊んでいるかぎり、そんなに危険なことなんてなかった。

今や、きっとそんな関わりなんてないだろうし、そういう密なコミュニケーションなんて望まないだろうと思う。昔はそうだったというだけで、親が近所と密なコミュニケーションをとるなんていうのは誰ものぞまないし、ぞっとする。

そうやって地域が崩壊してしまえば、そりゃ、学童とか行政の仕組みを頼らざるを得なくなる。まあ、崩壊というと、地域や近所にノスタルジーを感じる表現になるから、そうではなくて、自分らしく生きるということの完成の果てに、ということなんだろうけど。

地域とか近所とか社会とか共同体とかっていうのは、面倒でウザい。

とはいえ、自分は自分らしく生きたいから、仕事も趣味も遊びも必要。変な話、現代の価値観において、趣味や息抜きのために子どもを預けるとしても、考え方としてはアリのはず。制度としてはまずいけどね。金銭的に優遇してるから。でも、自分らしく生きるためにたまには子どもがいなくなるのも、きっと感性としては許容できる人が大半。

となってくると、頼るべきものは行政とその仕組みしかない。ボランティア的に誰かと助け合うこともなく、かといって自分の人生を子育てに組み込むわけにもいかない。

結論は決まっていて、そういう制度を作れ、充実させろってことになる。

小学校高学年に学童が必要かどうかって議論はこういうところにあるんだと思う。

地域に、近所の枠組みがなくなってしまえば、当たり前だけれど、どこかが引き受けてくれないと困る。そうでないと、本当に単純に子どもがひとりで生きないといけない。でも、実際そうはいかなくて、たぶん、友達とか近所とかがあってなんとかなるから、その部分をどの程度許容してるかによって考えが変わる。

あとは習い事的な余裕もあるかも。自分たちでそういう場所を子どもに与えている家庭は学童的なものへのこだわりはないけれど、そうでないとなるとその居場所は必要になる。

いろんな考えがあるかもしれないけれど、きっと、現代は後戻りして地域や近所を再生したり、あるいは新たなつながりを求めるべくボランティアの時代にもなったりしないだろうから、必ず、こういう行政の制度が必要になっていくんだと思う。

これは仕方がないことだ。

自分自身は、新たなつながりとしてのボランティアを選択して、もう少し人とのつながりがある場所を探してみたいと思ったり。

少々考える今日このごろ。

休みと温泉

日々の生活と仕事は毎日追いかけてくる。

生活というのは、家族がいて、家族と一緒に過ごすこと。朝ごはんを作って、学校に送り出し、洗濯をして、保育園に迎えに行き、買い物をして、夕ご飯を作って、習い事に送り届け、彼らの一日を聞いて、本を読んだりして、明日の準備をしたりして寝る。

まあ、こういうのを奥さんと分け合いながら活動する。

幸いなことに、こうした日々のルーティンは自分にとって迷惑なものではなく、大変ではあるけれど、自分がここにいる証明のようなもので、それこそが目的ともなりうるような気がする。

人間てよくできていると思う。

近代の個人主義の時代において、僕らはそれでも「個人」「自己」「自我」、なんでもいいけれどそうやって生きることが普通になってしまったから、多分、家族に自分の時間を分け与えることはよくないことで、場合によっては、他者からみてても、「そんな親迷惑だし」なんて言われるかもしれないけれど、実際に自分がそこに突入すると、そこにこそ存在価値があって、それ自体が目的となりうるような気がしている。

本来、仕事もそうあるべきなのかもしれないけれど、残念ながら仕事の方は他者性が強いというか、他人が介在するからというか、要するに個人の生き方を尊重する常識の中にいるから、そう簡単にやりがいを感じることはできなくなってしまって、ただの収入を得る手段になりさがってしまった。

本当は、仕事を通じて社会や共同体を生きるという考え方も大事なんだろうと思うけれど、現代においてそんな甘い考えを持ってしまうと、他者につけこまれ、批判されるきっかけにさえなりうる。

嫌な時代だと思う。

そうなればなるほど、仕事はただの収入を得る手段であって、そこにもはや充実とかやりがいとかは感じにくい。だからこそ、休みの一日は待ち遠しい。

といっても共働きの我が家では、お互いが休みの時ぐらいは家事を負担することは当たり前だから、自分に与えられた自由時間は3時間ぐらい。

その時間が過ぎると、リフレッシュはできるけれど、家事や雑事がやってくる。

最近はその3時間を近くにできた温泉に当てることが多い。

いわゆるサウナでリフレッシュ。

お風呂とサウナからあがると少し合間に仕事もできてしまうからなおのこと都合がいい。そうやって週に一度くらい、一人の時間を意図的に作るのも悪くない。

不思議なことにずっとそうしていたいわけでなく、週に一度くらいで十分で、後は家族のために迎えにいったり、送りに行ったり、ご飯を食べさせたりするのも悪くない。

というわけで、たまの休日は温泉にいってサウナに入る。

そんな今日このごろ。

で、家に戻ると、毎日同じようなことをしているようで、子どもは成長するからやることはどんどん変わっていく。だから飽きないのかもしれない。