春がいつかというのは難しい。
暦の上では2月になれば十分春だけれど、なかなかそうも言えない。季節として、花が咲いたり、暖かくなったりという節目も当然あるけれど、日本においてはやはり3月が終わって4月になるという、その年度替わりが「春」のような気がする。
冬が終わって、春がきて、また1年がめぐる。
当たり前のように繰り返される年の移り変わりだけれど、そこには決定的な断絶があって、入れ替わりがある。
死の後に生がやってくる、その不気味さ。
終わらなければ、始まらないし、終わらないものはないのだけれど、突然、何かがぶつりときれて、新しいものが始まる。
学年が変わって、新しいクラスになったり。
誰かが辞めて、新しい人が入ってきたり。
まあ、ともかくもさまざまな変化が春に起こる。
もちろん、ちょっと新鮮であったり、ちょっと緊張したり、ちょっと楽しみであったり、ちょっと不安であったり、様々な感情がそれぞれの人の中に渦巻いているのだろうと思うけれど、残念なことにあっという間にそれが日常と化していく。
それが日常となるのにどれぐらいの時間がかかるのかわからないけれど、ただひたすらに僕らはそれを日常とすべく生きている。
どこであれ、僕らは日常を形作り、いつかはその日常から離れる。らせん階段のように、ぐるぐると回りながら同じ事を繰り返しているように感じるけれど、この冬から春の間には必ず断絶があって、そこをぼくらはひょいと飛び越える。
本当はものすごい断絶があるのに、多くの場合、歩いている歩幅と変わらないぐらいで、何気なく、ひょいと飛び越える。
それなりに思いを込めて、その断絶を飛び越えても、あっという間にそれは日常の歩幅と変わらなくなる。
いい意味でも、悪い意味でも。
失われるものが大切なものであるように感じても、では、それが大切なものとして向き合ってきたかというと話は別だ。
特別なもののように新しい場所が用意されていても、そこに特別なものとして敬意を持って向き合うかといえばそれもまた話は別だ。
それがいい意味でも悪い意味でも、日常になるということだと思う。
日常にならなければ、それはそれで大変だ。でも、日常になればある種の敬意は失われていく。当たり前だ。毎日、顔を合わせるありとあらゆるものに緊張や敬意を持って接するわけにはいかない。疲れてしまう。
とはいえ、そういう当たり前の日常が続くことの尊さを本来は感じながら生きていきたいと思うわけだけれど、実際にそういうわけにはいかない。
だから、こういう断絶がある春のときぐらい、失われたものに対する敬意を心のどこかに持ちたいと思ったりする。