踊る大捜査線の話

フジテレビで、映画が公開される関係で、懐かしの「踊る大捜査線」シリーズをやっていた。懐かしくて、結構観てしまったわけだけれど、まあ、内容がすごい。コミック的な、というか、コミカルに描いていくのが「踊る」の真骨頂なわけだけれど、今見ると驚くようなことばかり。

 

最近の「コンプライアンス」ということだと、まず青島くんが、至るところでくわえタバコをしていることがびっくり。車の中、警察署の中、もちろん町中でも。

で、怪我した青島くんを運ぶ室井さんが車を運転して、しばらくすると、シートベルトをするシーンがある。命がかかっているわけだから、シートベルトをしないで走らせて、大丈夫とわかってから落ち着いてシートベルトをする…。

そのぐらいいいと思うんだけど、今やそんなこともきっと時代は許さない。

問題は実はそんなところではなくて、もっと本質的なところ。

この作品の名台詞に「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」というのがあるんだけれど、現場で苦しんでいる刑事たちの手法を、キャリアと呼ばれる人たちがああだこうだ文句をつけて、正しいことができない、つまり、犯人を取り逃がしたり、さらなる被害を生んだり…というのがこの作品の肝。

ぼくらはノンキャリアの青島くんとかすみれさんとか和久さんとかに感情移入して、うるさいこと言ってくる上司やキャリアの人たちをやっつけてほしいと思う。現場で正しいことをやっていればいいじゃないか、組織とか、規律とか、そういうことじゃなくて、正しいことをすることが大事だよね…とそんな気持ちになるわけ。

実際、これが流行ったときは、就活で、みんながこういう理想を語り、尊敬する人に「青島刑事」をあげる人が続出し、そういった答えをした人を全部不採用にした…なんて伝説があるぐらい社会現象で、みんながこれを支持していた。

 

で、本題。今から、見直してみると、まあひどい。青島くんたちのやってることって危ないことばっかり。それこそ取り調べの手法なんて、アウトでしょって感じだし、その捜査の手法も、コメディだから仕方ないとはいえ、だめなことばっかり。

そうなのだ。令和の感覚で見直してみると、止めているキャリア官僚の方がよっぽどまっとうだったりするシーンさえある。もちろん、差別主義ではなから協力する気がないという設定当たりは現代でもキャリアにあるなら認められないけれど、コンプライアンスに注意してしまう現代だと、キャリアと一緒に青島君をとめたくなるシーンにあふれてしまう。

 

おそろしい。時代は変わったのだ。

 

しかし、それ以上に恐ろしいのは、そうやって見直してみてはじめて変わった自分に気付くのだ。青島くんのコンプライアンスが気になる自分も、かつては無条件に青島君を「正しい」と応援していて、決して気になったりしないし、止めたくなったりしなかったのだ。

にも関わらず、僕らは昔から、自分はコンプライアンスを遵守してきた、という幻想の中にいる。変わったはずなのに、昔から変わらず今のままだったと信じる自分がいるわけだ。

そういう認識の中で他人の、過去の罪を断罪できたりする。

それこそが最も恐ろしい話だ。

あの時代、みんながあれを許容していた。

いや、みんながあれを「正しい」ことと認識していた。

それが間違っているのではない。私たちは時代を経て変わったのであり、ずっとそうだったのではない。

そういう反省と認識を僕らは持つべきだと思う。チャンスがあったら見てほしい。