日本の個人主義

日本の個人主義、なんてたいそうなタイトルをつけたけれど、ここのところ、現代文の授業とか、小論文とかをやりながら、感じたことを覚え書きとして、まとめる程度の記事。

さて、教員の職場がブラックで、改善が必要だなんて話が入ってくるのは、とてもいい話で、とても個人主義なんていう言葉とは関係がない議論だとは思うけれど、とはいえ、「やりがい」とか「感謝」とか「尊敬」とかいう言葉ではとてもやっていけない時代が来たと考えると、やはり徐々にすべてのものがサービスとして、対価を求められ、一方で、教員も個人としての人生を優先する、いや、優先すべき、という時代がやってきたのではないかと思う。

こんなことを書いたところで、日本のムラ的社会に対する忌避というか嫌悪というか、そんなものはずいぶん前からあって、それがこうして個人の時代に来るわけだから、悪いことなんてあるわけがない。

でも、こういう議論をしていくと、なんだか日本ばかりがとてつもなく変なことをやっているのではないかっていう気になる。だって、世界標準であるなら、他国と同じようなことをすればいいわけだし。

というわけで、何が日本オリジナルなんだろう、なんて考えたわけです。

たとえば、部活動の話。

私は理解されにくいと思うけれど、部活動は重要と考えつつ、だからこそ地域移行すべき派。要するに、部活動が担っている内容は重要なので大事にすべきだけれど、それを実行するのは、学校や教員でなく、地域や保護者でいいんじゃない?っていう派。

たぶん理解されないし、同じ考えの人には滅多に会わない。

部活動っていうのはすごい仕組みで、活動するための場所と時間が準備されて、しかもそこにほとんどお金をかけることなく、維持されている。

まあ、だからこそ、やりがい搾取で教員がただ働きさせられるわけだから、論外なんだけれど、地域移行して、しっかり対価を払わせようとすると、当然、そのお金はどっから出るんだってことになる。

スイミングクラブはだいたい週1回1時間で1万円はしないくらい月額払う。ピアノだったらもっと高いだろう。毎日になったらその七倍ではもちろんないけれど、でも額があがることは間違いない。

というわけで、普通の人にとってみれば地域移行で、サービスに相当する対価を払い始めると部活動のように毎日やるわけにはいかない。毎日やるのがいいかという議論はおいておいて、相当にお金をかけるか、回数を減らすか、どちらかしかない。

仮に平日はなしにして土日中心にしたとして、たとえばよく聞くような専門的なコーチを使うとしたらどうなるか。

もし、これで生計をこの人が立てるとすると、毎週2日の実働で、朝から晩まで時間ごとにいろいろな年代を見るとしたところで、ここに集まるお金で月給が確保されないと専門的な生計は立てられない。

つまり、他に仕事をかけもつことになる。となると、そもそもこれが「専門的なコーチ」といえるかは怪しい。

そうじゃないとすると、やはりここには教員に求めたボランティア要素が多分に必要になる。ていうか、そういう人じゃないとやれない。

もしくは、僕らが週2日の労働に対して月給的なペイを払うかしかない。そんなお金はきっと出さない。

つまり、地域移行していくと、はっきりわかるのは、ただ働きに使える教員がいかにありがたかったかというだけで、逆に言えば、結局はただ働きしてくれるボランティアがどこかにいないかしら…と探しだすことはすぐにわかる。

結局、ぼくらはそういうボランティアがほしい。

この議論、逆から見ると、「ボランティアが減った」ということになる。教員はボランティアは嫌だ、と大声で言えるようになった。そういう人が増えたからだ。そして、そういう人が増えたから教員のなり手は減った。(誤解しないでほしいが、嘆いてもいないし、懐かしんでもいない。ただの事実。)そして、保護者もそういうことに理解してくれる人がどんどん多くなっていることも事実。

だって、個人主義の時代なんだもの。

というわけで、ここが日本の特徴だと思う。

つまり、もともとムラ的社会の中で、社会の中の関係とか役割で動いてきた僕らは、個人主義の対義語に社会とか関係をおいて、個人の反対にあるものを「悪」ととらえるようになった。ボランティアでさえ、相手ではなく、自己実現の言葉のようにぼくらは使いかねない。

でも、よく考えてみると、人間の生活は一人で成り立つものではない。たとえば、救急車がただでこなくなったら、病気の人を誰かが運ばないといけない。子育てだってそうで、育休みんながとって町中に子どもがあふれたら、それは目にした人みんなが許容してあげないといけない。

つまり、個人主義が進むところ、その隙間を埋めるのはボランティアで、それなしに社会は成り立たない。小論文的にいうと、小さい政府になればなるほど、ボランティアと協力が欠かせないし、大きな政府というのは、個人が本来社会的義務としてやらなければいけないことを、誰かに(この場合は政府や行政に)代行してもらう仕組み。

だから、日本では保育園が好まれる。ぼくらは個人の時間が大事で、子育てを代行してほしいから。本当は育休という選択肢もあるけれど、日本人は好まない。個人の時間がとられるからだ。

欧米が育休中心で保育園が少ないのと比べると感覚的にわかるかもしれない。

だから、もともと個人を尊重していた欧米は、隙間を埋めるボランティアの重要性はしっかりわかっているはず。だからおそらく部活動が地域に移行する…なんてことがもともとなんだから起こるわけないけれど…おこったとしても、みんなでボランティア的に支えるだろうということは想像できる。

でも、きっと日本では、ボランティアは個人の時間を搾取する悪の象徴だから、ボランティアを自分の人生の生きがいとする少数派以外は、おそらく、きちんとした指導者に相応のペイを払う、という思想になるに違いない。

となると、最初の話に戻るけれど、スポーツは、お金がある人がはじめてできるものになるんだろうなと思う。

個人主義だからこそ、ボランティア的な社会がかる~くできている他国と、もともと協力的だからこそ、徹底した個人主義に進んで、自己犠牲的なことを嫌う日本。

日本ではボランティアが偽善とか欺瞞とかでとらえられることも多いけれど、きっとこういうところに根っこがあるのかもしれない。まあ、宗教的な要因も大きいだろうけれど。